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自己意識の定着度を測る江ノ電沿線の旅 1


自分の意識の定着度を測るために、鎌倉から藤沢へ至る江ノ電沿線の小旅行に出た。
まずは生まれて初めて長谷の観音へ向かう。
深い理由はない。
何となく行ってみたかった。


鎌倉の江ノ電始発のホームに立つ。
当然、意識を目の内側に置く。
周りには電車到着を待つ人々の列。
その人々に目をやりながら、それを見ている内側の者に注意を向ける。
主体をキープする。
目の前でもたれ合うカップルを見ながら、
それを見る自分の目の内側の主体へ意識を向ける。

主体、主体、主体
意識、意識、意識
気づき、気づき、気づき

意識の中心に注意を置きながら、あらためて辺りを見回す。
見回している者に油断なく気づいている。

やがて電車が入って来た。
先頭車両に乗り込んだ私は、鉄道オタクのように操縦席の前に陣取る。
運転の機器を見渡す。

「あのペダルはなんだろう?」

運転手が席につき、レバーを引くと電車は動き出した。
「ペダルは関係ないのか。基本は手だけなのか。」
などと考え事に没頭する。

没頭していることにすぐに気づき、気づいた者に意識を向ける。

主体を保つ。
Me、I を意識する。
私。見ている私。
目の内側から見ている私。
I。Me。
気づき。
気づいている者。

気づきの中心。
目の内側の主体。

脳自身。

注意を中心へ引き戻す。
決して手離さない。
忘れない。
意識し続ける。

車両の走行音を聴いている者。
内側から景色を見ている者。
その存在と共に留まる。
決してさまよわない。

私は「私」をキープしたまま電車に乗り続ける。
正直、そこから長谷までの記憶はほとんどない。

「自己」に留意することで精いっぱいで、
周りの景色など見ている暇はないのだ。


本来は何か作業しながら、「自己」への気づきを保てればいいのだが、
私はまだせいぜい散歩しながら、自己想起を保つことしかできない。

人と話すと自己を忘れる。
食べ始めると自己を忘れる。
テレビを観ると自己を忘れる。
考え出すと自己を忘れる。
本を読むと自己を忘れる。

今も、自己を保ちながら文章が書けない。
書いては引き戻し、また書いては引き戻し(意識を)。
決してふたつ同時にはできない。
それほどに自己が確立されていない。



長谷の観音はすばらしかった。
観音像の前に立ち、目を閉じ手を合わせると、
すうっと自分の中心に自然に統一できるのを感じた。
こんな感覚は逗子のラーマクリシュナのアシュラムで
お祈りさせていただいた時以来だ。
あの道場は清浄で、1時間ほど座ると不浄がさっぱりと抜け落ちた。

長谷の観音も、その御前に立つのがあまりに気持ちがいいので、
ゆるされるなら何時間でも手をあわせていたいぐらいだった。
無理して自己を取り戻そうとせずとも、
自然に本来の自分のままでいられた。
中心が定まっていた。

しかし、一度観音像から離れ始めると、すぐにバイブレーションが落ちるのを感じた。
だから、二度、三度、と戻っては同じように手を合わせてしまった。
離れたくなかった。

仕方なくその場を去ると、みるみる意識レベルは下がっていった。
私はまた愚直に、「目の内側の主体」に注意を向けるほかなかった。

後ろ髪を引かれる思いで長谷寺を後にした私は、
今度はせっかくなので近くの大仏をめざすことにした。

そしてたどり着いたものの、ここについてはあまり書くべきことがない。
大仏の前で手を合わせたが、特に何も感じることがなかった。
20円払って初めて内部にも入ったが、これもただの空洞だった。
あまりに観光客が多いせいもあるだろうが、
私にはただの観光スポットとしか感じられなかった。

そのせいか、「自己」に対する気づきも散漫だった。
中国人らしき夫婦にカメラ撮影を頼まれシャッターを切る間も、
ほぼ自己を失っていたといえる。

大仏から離れて、大仏を「見ている者」に意識を向けたが、
それほど手応えを感じなかった。



大仏を後にして海へ出た。
とてもきれいだったので、江ノ電ではなく歩いて江ノ島まで行くことにした。
その時は曇天だったのだ。

しかしこれが失敗だった。

やがておそらく30度を越す炎天下となり、次第に体力は衰えていった。
一体たどり着けるのか不安になりながらも、とにかく足を進め、
切通しの向こうに江ノ島が見えた時はほっとした。
しかしここで再び意識を自己の中心へ引き戻す。
すると思いはやむ。

稲村ケ崎に着いた。
自販機で水を買い、ペットボトルを口にしながら江ノ島方面を望む。
海岸には人々が憩っている。

泳ぐ人、砂浜を歩く人、サーフィンを楽しむ人。
そうした光景を目にしながら、それを見ている「者」への注意を保つ。
決して離さない。

すぐ近くで女性の2人連れが江ノ島を背景に写真を撮り始めた。
交互に撮っているので、よほどに「撮ってあげましょうか?」と
言おうかと思ったが、なんとなく気が引けてやめた。
そのやりとりで「自己」を失うのも怖かった。


この作業をしていると、自然と人を避けるようになる。
それは人間が嫌いだからではない。
会話などのやりとりの中で、「自己」を忘れてしまうからだ。
私はまだ、会話をしながら「自己」を保てない。

古来、悟りを求めて人は出家し、寺院に身を寄せた。
一切の雑音を絶ち、「自己」に集中するためだ。

なぜ女人がダメなのか?
行為が不浄だからではなく、異性に夢中になることで「自己」を失うからだ。

なぜ肉食がダメなのか?
バイブレーションが粗くなり、「自己」を保つ集中力も下がるからだ。

すべては「自己」を取り戻すためなのである。

揺るがぬ「自己」を確立するために、人はやはり一定期間は
世間とは距離を置く必要がある。
そしてもう世間に巻き込まれないと自信がつけば、
またもと通り、大いに関わればいいだろう。
だがしかし、今の私はそこまで「自己」を確立できていない。


もう一度江ノ島に目をやる。
見ながら、目の内側から見ている「主体」に意識を向ける。

主体が江ノ島を見ている。
主体が風を感じている。
主体が音を聴いている。

すべてに気づいている中心がある。
そこへ意識を向ける。

主体への留意を保ち続ける。


「I、I、I、I、、、、、」

私は「I」と共にまた歩き始めた。


あとから考えれば、なぜ途中からでも江ノ電に乗らなかったのか不思議だが、
暑さの中「自己」を保つことに必死で、それどころではなかったのだ。
ただ、それほどまでに想起に努めたせいか、
長い駐車場のあたりでは、かなり集中力が上がっていた。

人々とすれ違いながら、私は「I」をキープし続けた。
「I」が目を通して見ている。
「I」が私と言う肉体を操縦して歩いている。


「I」は目の奥にいる。
目の奥にいて、そこからじっと見ている。

鎌倉高校前、そして江ノ島入り口へと、高揚した意識のまま歩いた。
しかし、江ノ島を目の前にして、急に足元がふらつき、気分が遠のいてきた。

熱中症の症状だ。

私はとにかく近くのコンビニに駆け込み、商品を見ながら涼をとった。
まずは身体と頭を冷やさなければと思った。

しばらくして落ち着くと、ポカリスエットとビダーインゼリーを買い、
店の脇の日陰で口にした。


このまま江ノ島へ行くのは無理だった。
私は一旦、片瀬江ノ島駅へ向かい、そこから乗り継いで平塚のホテルに泊まることにした。
ホテルにチェックインし、シャワーを浴びるとさらに体力も持ち直したので、
私は再びホテルの部屋で、自己の中心へ意識を向け始めた。

10分ぐらいで集中が始まり、そのまま意識を中心に置くこと2時間が過ぎた。

テレビなどつけない。

つければ「自己」を失うから。


あたりも薄暗くなってきた。
しかし、集中力は高まっていた。

このままずっと続けてもよかったが、やはり疲れもあったのか、
気づくと私はベッドに横たわっていた。

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