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6月, 2017の投稿を表示しています
どんよりとした気分でベッドに横になった 目を閉じ内側に注意を向けた しかし1時間は落ち込んだ気分が続いた すべてに対してネガティブな気分だ そのままさらに1時間、注意を意識の中心に向け続けた ただひたすら自己、主体を意識し続けた 次第に雲が消散するように希望の光が差して来た そして内側から笑いと明るい気分が込み上げてきた この間、外から見ればひとりの人間が目を閉じ横たわり ミイラのようにじっとしているのが見えただけだろう だがミイラの内側では意識レベルに大きな変化があった 数値1から数値7まで意識の覚醒度が上がった それにつれて気分も解き放たれた 変化に必要なことは「自己想起」のみだった
久しぶりに歯の激痛に見舞われた その最中に意識を思考以前のポイントにスライドさせる 気づきを意識の中心に置く 注意を強烈に中心に照射する 痛みから離れて存在する自己 痛みはそのままに、不思議なくつろぎに憩う自己
ヘッドホンで音楽を聴きながら 脳の中心で聴いている者に焦点をあてる 聴いている者と音楽が分離する 聴いている者と音楽のあいだに距離が生まれる 音楽を少し遠くに感じる 音楽から離れて存在する自己
私が初めて「自己想起」の概念を知ったのは1991年3月のことでした P.D.ウスペンスキーの「人間に可能な進化の心理学」を通してです その後、同じ年に出版された山口令子氏の「自己変革の原理と方法」に記された 「自観法」の説明により、「自己想起」を具体的に体感しました しかし、私は「自己想起」を今の自分の動作や行為、思考や感情に 気づいている作業だと思い込んでしまいました そしてその状態が20年以上続きました 私は時折り、今の自分の行為に気づいては「よし自己想起できた」と満足していました それですらできたのはごく稀にでした しかしそれは「自己想起」ではないと気づかせてくれたのがアナディ(アジズ)でした 自分の行為や思考に気づいている「気づき」「意識」「主体」「私」「Me」 それ自身への気づきこそが「自己想起」だったのです 例えば私は今、このディスプレイを見ています 以前は「ディスプレイを見ている」という行為への気づきを 「自己想起」だと思っていました しかし「自己想起」はそこから一歩進めて、行為に気づいている 「意識」への気づきだったのです 今、この文字を目を通して見ている「自己」自身への注意です 目の内側から見ている「主体」に注意の向きを反転させるのです そしてその状態を、起きている間、常にキープしなければなりません それが常なる状態に定着することが「覚醒」「悟り」です
一日に二時間は集中して自己を取り戻す時間をつくる
行為の最中に自己の中心を保つ 悩みの最中に自己の中心にとどまる 痛みの最中に自己の中心を取り戻す
天国を探している者自身が天国だったと気づく時 すべての探求は終わりを迎えます
浄土は西方の彼方にではなく 目の内側、意識の中心にあります