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まずはマインドフルネスのクセをつけて、そこから自己想起に進むのも いいかもしれません

先日、ブックオフでマインドフルネスに関する著書数冊に目を通しました マインドフルネスでは日常の機械的な自動操縦状態を離れ、 自分の呼吸や思考、体の所作や感触などに意識的になることが強調されていました 呼吸を数える数息観はその代表的なメソッドのひとつでした

やすらぎの度合いが広がっているはずです

これは綱引きのようなものです 肉体とマインド側は、自身の支配を手放すまいと必死です 切れ目なくおしゃべりを続け、外界に興味を惹かれ続け 肉体に痛みや不快感を起こし、主体の注意をそらし続けます

罵詈雑言を書いているのは本当のあなたではありません

たとえば電車の吊り革を持って立っている時、 ただ漫然と車窓の景色を眺めるのではなく むしろ景色を見ている者に注意を向けます あるいはスマホを手に眺めているなら 時折りそれを下に置き、目を上げ意識を自己の中心に戻します

そして言葉がいらなくなったら、ただその空間に存在します

意識を失いかけた人に連呼して呼び起こすように 自己に呼びかけ続けるのは自己想起の基本です 私、私、私… 主体、主体、主体… 自己、自己、自己… I、I、I… Me、Me、Me… 意識、意識、意識…

少しの動きを伴う歩禅も有効的です

ゆっくりと歩きながら注意を内側に集中するのは効果的なエクササイズです できれば人気の少ない自然の中が理想ですが、 自分一人の状況を確保できるなら、例え雑踏の街中でもかまいません むしろその方が集中力を強化できるかもしれません

あなたの帰るべき場所は意識の中心です

常に脳の中心にとどまってください いるべき場所は脳のセンターです そこから世界を眺めてください あなたの帰るべき場所は意識の中心です

本当の自己は目の内側から見ています

今、この文字を「見ている者」に気づいてください 注意の焦点を文字から「見ている者」に引き戻してください 本当の自己は目の内側から見ています 目というレンズを通して見ている者が本当のあなたです

眺めている者が本当の自己です

「考えたい」という痛切な欲求に打ち克つことです これができれば自己想起は80%できたも同然です むしろ欲求の内側に意識を引き戻し そこから欲求を眺めます 眺めている者に注意を払うのです 眺めている者が本当の自己です

2週間近くは「自己」がほとんどない状態でした

私は日頃ひとりで暮らしていますが、先日、久しぶりに家族が来て数日泊まった結果、 それまで高まっていた集中は途切れ、完全に眠ってしまいました。 2週間近くは「自己」がほとんどない状態でした。 家族が帰って1週間が過ぎ、落ち着いてきたところで喪失感がありました。 私は自分が眠っているかもしれないとぼんやり気づきました。

座して目を閉じ心を静めることばかりが瞑想ではありません

座して目を閉じ心を静めることばかりが瞑想ではありません。 意識が目の内側にあり、それ自身に気づき、 そこから目を通して見ている状態にあれば、それが瞑想です。

それが「自己」「私」「I」「認識者」「主体」「Me」「知覚者」です

思考は言葉を伴うものばかりではなく、 言葉のないイメージ、音、音楽なども意味します 人間の頭の中には始終何らかの雑音が鳴っていて、 静寂無音であることがありません マインドに無思考はなく、壊れたラジオのようにノイズを発し続けています 人はそのノイズにいちいち同調し、とりとめのない思考に没頭しています この状態に気づくことが第一歩 自分の日頃の状態が異常だと認識することが始まりです

「自己」はその存在に気づき感じる(feel)ものです

「自己」はそれについて考え理解するものではなく、 その存在に気づき感じる(feel)ものです 「自己想起」について考えることは「自己想起」ではありません むしろ「自己想起」について考えていることに気づき、 「気づいた者(自己)」に注意を向けることが「自己想起」です

人間は抑えがたい「思考への欲求」に追われています

マインドはひっきりなしに考えています。 やっつけなければならない考え事に追われ、 起きている一日中、頭の中のおしゃべりは続きます。 そしておしゃべりのテーマに必然性はなく、 しばらく経てば思い出せない内容がほとんどです。

人生のドラマは映画館で上映される映画のようなもの、映画館を出ない限り上映は続く

人生に起こるよろこび、哀しみなどの様々なドラマは、 映画館のスクリーンに映し出される映画のようなものです。 人は投影物に過ぎない映像の中のできごとにのめり込み、 同一化して一喜一憂します。 しかし、それがどんなにリアルであっても、 所詮は作り物のドラマ、平面の映像に過ぎません。

自己への注意力を高める「客体 ⇔ 主体ストレッチ」

まずはこの画像を見てください。 ルーヴル美術館に所蔵される有名な彫刻「サモトラケのニケ」です。 次にそれを見ている者に注意を向けてください。 目の内側から目を通して見ているあなた自身にです。 見られている対象物(彫刻の画像)が客体 見ている者が主体です。

【第3の気づき】について

このブログのテーマである「第3の気づき」についてまとめておきます 【第1の気づき】 周囲のできごとや人の言葉など、自身を取り巻く外界の状況に気づいている状態 特に変わったことのない一般的な気づき

脳内のおしゃべりを独り言で実況する男性

ある日のこと バスでうしろの座席に座った男性が独り言を始めました 男性の声は大きく、あたかも自身の想念を実況するかのように独り言は続きました その内容は愚痴を中心とした脈絡のないもので 男性は誰かに話しかけるように喋り続けていました

「es」は「スーパーエゴ」と「エゴ」を使って優位を保っています

自分は常に頭の中で何かを考え続けていると気づくことが第一歩です 人間は一日中頭の中で、とめどないおしゃべりを続けています 空白ができればそれを嫌うように、次のテーマで考え続けています 誰かに何かを言われればいちいちそれに反応し、思考し感情を荒立てます そしてそれに呑まれ苛立ち、一日が過ぎていきます

かごめかごめ、籠の中の鳥は「後ろの正面」に在ります

電車やバスでスマホをのぞき込んでいる人たちを見てください 彼らは画面の世界に気を取られ、自分に対する気づきはありません 画面の中と同一化し、自己はそこに埋没しています 自己不在です

私たちは自身の本当の姿を忘れた「みにくいアヒルの子」

神社の本殿には天照大御神の像ではなく鏡が置いてあります。 「己自身を見よ、神は汝の内に在り」 そう語っているように見えます。

自己想起で意識すべき脳内の位置 ~ 目の高さより上にある視床と松果体

このブログではよく「目の内側」という表現をとっています。 自己想起の際、注意を向けるポイントとしてこの表現を使っています。 しかし最近、「目の内側」だけでは位置の指定が曖昧だと気づきました。 実際には「目の内側」かつ、「斜め上」です。

それでも自己想起には累積効果がある

このブログを訪れていること自体が、すでに一定量覚醒していることの証です。 なぜなら、ここに書かれている情報は、眠りを支配するマインドにとって、自らの存在を脅かす不要な知識しかないからです。 目覚めようという意志と意識レベルが、ある程度の基準に達しなければ、ここに来ようという気持ちにすらならないと思います。

代わって現れるのは理由のない不思議なやすらぎです

困難に巻き込まれ焦燥感に見舞われた時、 自分は今眠りと過剰なマインドの動きの最中にいると認識することは、 その背後に在る主体への気づきの最初のステップになります。

何度でも何度でも何度でも意識を引き戻し、「自己」と共にただ「在る」

まずは想起すべき「自己」が何なのかをしっかり把握するべきです。 人の「自己」「自分」に対する認識は漠然としています。 ほとんどは自分の身体とそれに関係した事象をもって「自己」としています。 肉体を「自己」と捉えています。 しかしそれは「自己」が宿る物体であり、やがては消滅するものです。

自己凝視(自己観察)するには、まず前段階として一定量の「自己想起」が必要

私が初めて「自己想起」の概念に出会ったのは、当時の新刊として平積みされたP.D.ウスペンスキー著「人間に可能な進化の心理学」を手に取ったことからでした。 これをきっかけにグルジェフにつながり、当時出版されていた自己想起に関する書籍は入手できる限り目を通しました。 自己想起を理解するに従い、それまで本当には意味がわからなかったクリシュナムルティの書籍も、何が伝えたいのかがわかるようになりました。

思考に気づいたら、次に「気づいた者」に意識を向けよ

私は実に長い間、自己想起について思い違いをしていました。 自己想起の「自己」とは、自分の肉体の所作や感触、また呼吸や脳裏を駆け巡る想念のことだと思い込んでいました。 例えば歯磨きの最中に、「自分が歯を磨いていることを意識する」のが自己への気づき、すなわち「自己想起」だと思っていました。
幸福の絶頂に自己を想起することほど辛いものはありません いい夢はいつまでも見続けたいものだからです しかし夢を断ち切り、現実に立ち還らなければなりません 夢は所詮、夢に過ぎません あるがままの現実を受けとめ そこから歩み始めなければなりません

オリンピックで金をめざすアスリートのように 孤独で内的な闘いが必要です

自己想起が向こうから自然にやって来ることはありません 自己想起は眠りという人間の自然な状態に逆らい 意志と決意と実行をもって築き上げる地道な作業です オリンピックで金をめざすアスリートのように 孤独で内的な闘いが必要です

日常生活では当然ながら様々になすべきことがあります

「注意の分割」という手法があります。 今、自分が関わっている外界の事象と、 それを見ている「自己」自身の双方向に注意を分ける方法です。  日常生活では当然ながら様々になすべきことがあります。  座って目を閉じ、「自己」にばかり集中してはいられません。 そこでどうしても、注意を分割する必要があるのです。

毎日はどれだけ「自己」を取り戻せたかにかかっています

今あなたは花を見ています 次に見つめる焦点を画面の花から「見ている者」に移してください 目を通して見ている「あなた自身」にです それは目の内側、意識の中心に存在しています 思考から生きるのをやめ その内側からじっと見ている「あなた自身」に立ち還ってください 意識の焦点を外界や思考から「あなた自身」に引き戻してください これは瞬々刻々の闘いです 毎日はどれだけ「自己」を取り戻せたかにかかっています