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神は人が憎くていじめているのではない むしろ可愛いから、可能性を信じているから 敢えて鬼となり、我が子を絞り上げているのだ アスリートに厳しくあたる鬼コーチのようなものだ 自分はどう思われようと、教え子に100%の能力を発揮してほしいのだ
気づきは無執着で不動だ それは透明で、静かで、穏やかで、油断なく、 恐れがなく、欲望も恐怖もない あなたの真の存在として、それに瞑想しなさい そして日々の生活の中で、それで在ろうと試みなさい マインドは起こっていることに関心を持つが、 気づきはマインド自体に関心を持つのだ 子供はおもちゃを追い求めるが、 母親はおもちゃではなく子供を見ている ニサルガダッタ・マハラジ
あなたに必要なのは気づいていることに気づくことだ 意図的に、そして意識的に気づいていなさい 気づきの領域を広げ、そして深めなさい そして「私は在る」に関連した、いかなる想念がやって来ても、 それらのすべての意味を空っぽにし、注意を払ってはならない ニサルガダッタ・マハラジ
マインドがそこにある、とあなたに言うのはマインドなのだ 騙されてはいけない マインドについての果てしない議論はみな、 マインドそのものによってそれ自身を保護し、 継続し、拡張するために生み出されたのだ それを超えた彼方へとあなたを連れていくことができるのは、 マインドの回旋や動乱を完全に拒絶することだ ニサルガダッタ・マハラジ
自己への気づきを深め、広めていくことは王道なのだ それを留意、観照、あるいはただ注意と呼んでもいい それはすべての人たちのためにある 誰にも失敗はあり得ない ニサルガダッタ・マハラジ
困難の最中に会って「自己の中心」を保ち続けること それが最も大事なことです 人生にはまるで映画のように、日々、様々なできごとが起こります しかしそれはやがて過ぎゆく台風のようなものです 台風の中心にはくつろいで不動の静かな場所があります 常にそれを意識すること それと共に在り、決して台風の嵐に巻き込まれないことです 中心はやすらいでいます しかし、中心を保つには、油断なき気づきと自己への集中が必要です
目を閉じて、暗闇を見ている者 音を聴いている者 目を開けて、目を通して見ている者 目の内側から見ている者 中心にくつろぐ者 主体自身
ほんとうのあなたはくつろいでいる ほんとうのあなたは何も心配していない 過去を思い煩うこともなく 未来に想像をめぐらすこともない ただやすらいでここに在る
意識の中心を保つこと あたかも台風の目のように 中心にあって静かな場所から離れないこと
誰がこの文字を見ているのか? どこから見ているのか? 「見ている者」はどこに在るのか?
自分の行為に対する気づきなら誰でもやっています しかし、覚醒に至る「気づき」とは、 行為に気づいている「意識」への気づきです 「気づき」自身への気づき 「自己」自身への気づき
自己想起にはそれをしなくて良い時間はありません ピアニストは1日8時間ピアノを練習すると言い、 アスリートは1日10数時間、練習に打ち込むと言います しかし、覚醒をめざす者は、1日の「すべて」を想起に費やさなければなりません 人と語りながら「自己」を保ち 食べながら「自己」を保ち 歩きながら「自己」を保ち くつろぎながら「自己」を保ちます ものごとの背後に常に「自己」が存在し、 うしろから静かに見つめています その「自己」が真実の「私」です
私は光です 私は常に変わらず輝き続ける、不変不動の存在です なにものも私を脅かすことはなく なにごとも私に触れることはありません それはただ、今ここに在り 揺れず、動じず静かに気づいています 私は在る それ以外には何もありません
自己想起は瞬々刻々の作業です 自己想起をしなくて良い時間はありません 朝目覚めてから夜眠るまでの絶え間ない作業であり 唯一、価値のある仕事です 自己想起にとってすべては背景に過ぎません 一日はどれだけ自己想起を絞り出せたかに価値があり 私たちは毎秒ごとに、自己想起によって自己の魂を作り出しています 死後に持って行けるのはこれのみです 肉体は自己想起を生み出すために存在し その結果として築かれた意識と魂が人生の目的です 私たちは「意識」です 意識は肉体を持ってこの世に生まれる前から存在し 肉体の消滅後も変わらず存在し続けます 自己の正体である「意識」を得ることが生きる目的で あとはその場限りのストーリーに過ぎません
自己想起とは何か? を語る前に、「自己」とは何か? を明確にする必要があります 「自己」とはこの肉体を操縦する意識であり それは肉体の誕生以前から存在し、 肉体の消滅後も変わらずに存在するものです 「意識」「認識者」「知覚者」は目の内側に在り 目というレンズを通して外界を観ています また、思考、感情、感触、呼吸といった肉体反応も 「意識」から見れば外界のできごとに過ぎません 「意識」はすべての中心に在って、 台風の目のように静かに見守っています 内側のやすらかな場所に「自己」はあります 人は外側にばかり目を向け、外界のできごとに振り回されて一日を終えますが、 最後に残るものは「どれだけ自己の中心に意識を保てたか」それのみです 「自己想起」の蓄積が魂を創り上げ 不動の中心がその人に生命の火を灯し その人は真の人間として歩み始めるのです
あなたの正体は肉体の操縦者です
愛=I 愛と意志と誠実さは自己(主体)から生まれます
たとえどんなに気分が優れなくても 今が苦しみの最中だとしても 主体はいつも燦然と輝いている 分厚い雲の裏側の太陽のように
第一の気づき 周囲の状況や人の言動など、自分を取り巻く状況への気づき 一般的でごく普通の気づき 第二の気づき 思考、呼吸、感触、動作といった自分の肉体の状況への気づき 一般的ではないものの、これもまだ外的状況への気づきと言える 第三の気づき 第一と第二の状況に気づいている、内側の「意識・自己・主体」そのものへの気づき 「自己 想起」が意味するのは、この内なる「認識者」自身への気づきだ 「意識」自身への注意の照射が「意識・認識者」を活性化させ その蓄積はやがて完全な「覚醒」へと至る
おそらく、「意識の定着」に必要な自己想起の累積時間は決まっているはずです 数千時間、あるいは数万時間… 正確な時間はわかりませんが、それを達成した時 「意識の定着」は起こるはずです ですからひとによって、達成までの期間は違うはずです 集中力のある人なら数ヶ月 ない人なら数十年かもしれません とにかく、やり始めて一瞬にして定着することはあり得ません マハラジやアナディで3年かかったと言います
人間は「自己」という最も大事な軸もないまま その時々の風向きによって揺れるやじろべえのように あっちへふらふら、こっちへふらふらと千鳥足で生きています 自分が何を求め、何がしたいのかも本当にはわかっていません 社会環境から吹き込まれた他者の観念を自分の信念にすり替え 何の根拠もない価値判断の基準に沿って刹那を生きています まず自分の中心に揺るがぬ確かな軸を定めなければなりません それは「気づき」に基づいています 自己自身への気づき、認識者自身への気づき、知覚者自身への気づきです この気づきは努力なしには得られません 気づきへの「気づき」は超努力の成果なのです うっとりと魅了される周囲の魅力的なものごとを捨て置き ひたすら目の内側、意識の中心に注意を反転照射しなければなりません これは努力です 絶え間のない超努力です
意識の中心を取り戻すことは闘いです 自動的に自己想起が起こることはありません 常に、「自己を想起するぞ」「中心を定めるぞ」「気づきを逃さないぞ」 という決意と実行が必要です 起きている間、十数時間の内的闘いです
意識を失いかけた人を揺り起こすように 「意識、意識、意識」 「気づき、気づき、気づき」 「思い出す、思い出す、思い出す」 と自分に向かって心の中で連呼します その際、目の内側の意識の中心を強く意識します 頭のセンターに在る主体、自己、気づき、Meに向かって 注意のベクトルを反転照射します
自己想起に弾みがつくことはありません 累積効果があり、多少はやりやすくなるものの 基本的に難しさには変わりがありません
どんよりとした気分でベッドに横になった 目を閉じ内側に注意を向けた しかし1時間は落ち込んだ気分が続いた すべてに対してネガティブな気分だ そのままさらに1時間、注意を意識の中心に向け続けた ただひたすら自己、主体を意識し続けた 次第に雲が消散するように希望の光が差して来た そして内側から笑いと明るい気分が込み上げてきた この間、外から見ればひとりの人間が目を閉じ横たわり ミイラのようにじっとしているのが見えただけだろう だがミイラの内側では意識レベルに大きな変化があった 数値1から数値7まで意識の覚醒度が上がった それにつれて気分も解き放たれた 変化に必要なことは「自己想起」のみだった
久しぶりに歯の激痛に見舞われた その最中に意識を思考以前のポイントにスライドさせる 気づきを意識の中心に置く 注意を強烈に中心に照射する 痛みから離れて存在する自己 痛みはそのままに、不思議なくつろぎに憩う自己
ヘッドホンで音楽を聴きながら 脳の中心で聴いている者に焦点をあてる 聴いている者と音楽が分離する 聴いている者と音楽のあいだに距離が生まれる 音楽を少し遠くに感じる 音楽から離れて存在する自己
私が初めて「自己想起」の概念を知ったのは1991年3月のことでした P.D.ウスペンスキーの「人間に可能な進化の心理学」を通してです その後、同じ年に出版された山口令子氏の「自己変革の原理と方法」に記された 「自観法」の説明により、「自己想起」を具体的に体感しました しかし、私は「自己想起」を今の自分の動作や行為、思考や感情に 気づいている作業だと思い込んでしまいました そしてその状態が20年以上続きました 私は時折り、今の自分の行為に気づいては「よし自己想起できた」と満足していました それですらできたのはごく稀にでした しかしそれは「自己想起」ではないと気づかせてくれたのがアナディ(アジズ)でした 自分の行為や思考に気づいている「気づき」「意識」「主体」「私」「Me」 それ自身への気づきこそが「自己想起」だったのです 例えば私は今、このディスプレイを見ています 以前は「ディスプレイを見ている」という行為への気づきを 「自己想起」だと思っていました しかし「自己想起」はそこから一歩進めて、行為に気づいている 「意識」への気づきだったのです 今、この文字を目を通して見ている「自己」自身への注意です 目の内側から見ている「主体」に注意の向きを反転させるのです そしてその状態を、起きている間、常にキープしなければなりません それが常なる状態に定着することが「覚醒」「悟り」です
一日に二時間は集中して自己を取り戻す時間をつくる
行為の最中に自己の中心を保つ 悩みの最中に自己の中心にとどまる 痛みの最中に自己の中心を取り戻す
天国を探している者自身が天国だったと気づく時 すべての探求は終わりを迎えます
浄土は西方の彼方にではなく 目の内側、意識の中心にあります
今、この文字を目で追っている者が ほんとうのあなた自身です
身体が意識を持っているのではなく 意識が身体を持っているのです
気づいている時 あなたは存在します 気づいていない時 あなたは存在しません
実在とは読んで字のごとく 実際に 存在 することです
外界がどんな嵐であろうとも 内側に気づきの灯をともし続ける
人生で大切なのはただひとつ 「自己」を取り戻すことのみです
「注意の分割」とは読んで字のごとくで 通常、一方向に向けられた注意を二方向に振り分けることです たとえば、今あなたはこの文字を読んでいます この時、注意は文字に向けられていますが 同時に文字を目で追っている者自身にも注意を向けるのです すなわち、文字と言う客体と、目を通して見ている主体の双方向にです 日常生活ではどうしてもこれが必要になってきます
自己想起が出来ないからと言って 自分を責めないでください、落ち込まないでください 自己想起は基本的に不可能な作業なのです それを切り開き、突破しようというのですから 困難なのは当然です アジズやマハラジを読むと3年も集中すれば意識は定着する という言い方ですが、それは彼らのような優れた特殊な人間の場合で 何十年取り組んでも一向に捗らない人もいます そして、それが普通なのです 私たちは人類進化に身をもって立ち会っているのです この身を通して人類進化の礎を築いているのです
自己想起、「私は在る」という気づきがあなたを強力に迅速に成熟させる あなた自身に関するすべての観念を捨て去りなさい そして、ただ在るのだ ニサルガダッタ・マハラジ
今、この文字を目を通して追っている者 眉間の奥から言葉なく観ている存在 それが本当のあなた自身です
結局、自己想起とは絶え間ない超努力なのです 自己想起に対する努力は裏切りません 努力しただけ必ず報いがあります 自己想起には累積効果があるのです
あなた自身に出会いなさい あなた自身の自己とともに在りなさい それに耳を傾けなさい それに従いなさい それを育み、絶えず記憶の中にとどめておきなさい あなたに他の指導は必要ない マハラジ
悟り(覚醒)とは脳が脳自身に気づいていること
気づいたらこまめに意識を引き戻す この丹念な積み重ね
マハラジの言葉は神ご自身の言葉です 神がニサルガダッタ・マハラジというひとりの人物の口を借り語っているのです 私は神ご自身の声を初めて聴きました
心を尽くし身を尽くし、汝の内なる主を求めなさい *あなたの目の内側の主体に注意を向けなさい
今、このディスプレイを見ている自分にハッと気づいてください 椅子に座り文字を目で追っているあなた自身にです どのような姿勢ですか? 椅子の感触は? あるいは接地した足裏の感触は? 鼻を抜ける呼吸に気づいてください 自分が何かを考えていることに気づいてください 次に、それらに気づいている「意識」に気づいてください 私たちの目の内側、頭の中にはすべてに気づいている「意識」が在ります その「意識」自体に注意を向けてください 「認識者」を認識してください 中心の「主体」に注意を反転してください そして「自己」自身への気づきを保ってください これが「自己」を想い起こすこと すなわち「自己想起 - Self Remembering」です
もしあなたの注意深さが深く、揺るぎなく、つねに源を向いているなら、 それは徐々に上昇し、突然それが源となるのだ マインドではなく、気づきに仕事をまかせなさい マインドはこの仕事に適した道具ではないのだ 永遠は永遠によってのみ到達できる あなたの身体とマインドはともに時間に支配されている ただ気づきだけが時間を超えている。それは今でさえ超えている 気づきのなかで、あなたは事実に直面する 実在は事実を好むのだ -  ニサルガダッタ・マハラジ
「自己」に気づき、それとひとつになることが答えです そして、ひとつになる方法は、ひたすらそれを想い起こすことです しかし問題は、当初人間には思い起こすべき「自己」が存在しないことです 正確には「存在しているものの、機能していない」ということです ですからまずは、半停止状態の「自己」を起動させる必要があります 起動させ、一定量「自己」の砦を築く必要があります それを取っ掛かりにして、思い起こすことで「自己」を大きくしていきます 何もない太平洋に最初の噴火が起こり、そこを拠点に島ができていくようなものです ひと度取っ掛かりとしての「自己」が機能し始めれば あとは想起が比較的楽になります (とは言え決して自動的には起こりません) 「自己想起」は最初に、思い出すべき「起点」を生み出す作業が最も困難なのです
通常、「自分に気づく」とひと口に言う場合 自分の姿勢や行為、動作への気づきを指しています あるいは自分の思考や呼吸、感触など 自分の肉体に纏わる事柄に対してです しかし、覚醒に至る気づきはもう一歩進めて それらに気づいている「主体」自身への気づきが求められます 私たちの目の内側には、周囲のすべてに気づいている「意識」があります しかし、私たちは「意識」自身には気づいていません これが霊的な「眠り」であり、一般的な人類の在り方です 「気づき」に対する気づきが覚醒への鍵です 「自己」は眉間の奥、脳の中心にあります 眉間への注意を保つことは、その入り口にはなります しかし、眉間の奥の「主体」への気づきを保つことは さらにダイレクトな覚醒への力になります この文字を目で追っている「者自身」への注意の反転です 「者自身」は純粋に「意識体」です
喧騒の最中にあって 油断なき気づきと共に 中心の静謐さを保つ
私たちは100年後の子供たちのために働いています 私たちの作業が即座に実を結び、覚醒した世界が実現することはないでしょう しかし、いつか来る開花した真実の世界のために その種を蒔くことはできます みなさんの一瞬一瞬の気づきが、未来へ続く轍となっていくのです
私たちの正体は、肉体という生体ロボットを操縦する「意識体」です それは脳の中心に位置します そこから目というレンズを通して、今この文字を読んでいます 文字から「意識体」自身に注意を反転させてください 目の内側の「意識体」自身に気づいていてください
人間は常にマインドという名の監獄に囚われています 人の頭脳は絶え間なく考え続けひと時も休む間がありません そして人は自らが考え続けている事実にも気づいていません この監獄から脱出する唯一の方法、それが「自己想起」です 「自己」に対する気づきのないマインドは延々と繰り言のように考え続けます 考えても答えなどないのに考え続けます しかし、思考を相手にしても止めることはできません かえって絡めとられるだけです 思考を相手にせずに、その内側に在る思考以前のポイント すなわち気づいている「意識」それ自身に注意を向けるのです 「自己」自身に気づき続けるのです 失っては取り戻し、また失っては取り戻しを繰り返しながら 人は少しずつ「自己」への気づきを深めていきます マインドという監獄から脱出するには、この作業をひたすら続けるしかありません 「自己想起」がハンマー 内側へと掘り進める唯一の道具です 作業は気が遠くなるほど険しく、ゴールには容易く届きません しかし、意志と信念と忍耐、超努力が脱出口へと導いてくれます 実際のところ「自己想起」に必要なのは「決意」と「実行」のみなのです それを貫いた者だけが「自由」を手に入れます そこから真実の「人生」が始まるのです
                 主体
いつでも「自己」に気づいていなさい
「自分に気づく」という言葉を使う時、大抵は自分の行為への気づきを指します または自分の思考への気づき、呼吸への気づきなど 自分の今の身体の状態への気づきを意味します しかしそれは「自己想起」ではありません 自己想起ではむしろ、気づきそのものに注意を向けます 「自己」とは目の内側から見ている者です 今、この文字を目を通して見ている者 それが「あなた自身」であり、それ自身への気づきが「自己想起」です
瞑想の本質とは自己自身への気づきです 目を閉じ座っている時だけが瞑想ではありません 生活のすべてが瞑想になり得るのです
思考や呼吸、また自らの行為や感触といった身体への気づきは第2の気づき それらに気づいている内側の意識、それ自身に気づくのが第3の気づきです 覚醒と変容をもたらすのは第3の気づきのキープと定着です 特定の限られた時間のみではなく、四六時中気づいていなければなりません
朝目覚めて、ベッドからいきなり起き上がるのではなく しばらく目を閉じたまま注意を意識の中心に向けてください 目の内側、眉間の奥にある主体、自己自身にです 中心にアクセスし、しっかりとつながりをもってください 寝起きはマインドの活動が鈍く、雑念も比較的少ないです この好機に一気に中心とのつながりを強めるのです そしてその状態をキープしたまま、その日の行動に移ってください
自己想起ではスクリーンの映像より むしろそれを観ている内側の存在に注意を向けます 内側への集中が高まり、それが定着安定すると 内側と外側の双方向に気づいていられるようになります
意識の中心とは顔の内側から目を通して外界を観ている存在です 映画館のスクリーンに映し出される映像を 客席の側から観ている者です
どんな行為をしても構いません またしなくても構いません ただ、意識の中心を保ち続けているなら
まず、呼吸の音を聴いてください 自身の呼吸を意識してください そして座っている椅子の感触 接地した足裏の感触を意識してください あなたは今、それらに気づいています 次に、その「気づき」を、気づいている「あなた自身」に移してください 呼吸や感触に気づいている「あなた自身」にです それは目を通して見ています 耳を通して聴いています うしろの正面だ~れ? それは「あなた自身」なのです
人の子が頭を横たえる場所はないのです 寝ている時以外は常に「自己」に気づいていること 意識を頭の中心に置き そこから目を通して見ること 耳を通して聴くこと 私たちの意識は普段、頭の周辺を漂っています それをグッと引き寄せ、頭の中心に据えること そのまま逃がさないこと 油断すればすぐに逃げ出し、また周囲を駆け回ります そうしたらまたつかまえて、意識を頭の中心に引き戻すこと つまりは「自己」への気づきをキープすることです 1秒から2秒へ 2秒から3秒へ 3秒から4秒へ おそろしく地道な作業ですが、これしか道はありません 無実の罪の囚人が、何年もかけて脱出口を掘り続けます そしてついに抜け出した瞬間の解放 眠った私たちはマインドに捕らわれた囚人です そこから抜け出すただひとつの方法 それが自己への気づき、すなわち「自己想起」です 自己自身への気づきはあまりに過酷で不可能に近く すべてを理解してもあっさり忘れ果てるほど遠いものです しかし立ち向かう 真の自己を得るために 真の自己自身に戻るために 刑務所から脱出するために 創造の光の乏しい、このフィルター越しの世界から飛び立つために
このブログを読んでいる方は、過去に幾多の道を経てきていると思います ひと通りの精神療法を試み、ワーク、修養法を経験されているでしょう 道筋に違いはあれど、「真実」を追求されているのは同じだと思います 私もあらゆる道をたどりました しかし、どの道も決して私の心を満たしてはくれませんでした 一時の高揚感が過ぎれば、またいつもの自分に戻ることを繰り返しました 祈り、感謝、笑顔、音楽、マントラ、マインドフルネス… まだ他にもあげればきりがありませんが、 決して到達できなかったという意味では同じです ダイレクトパスの長々とした説明を聴いて その真意を理解できる者が何人いるでしょうか? 今、このディスプレイを見ている者 目の奥、頭の後ろから言葉なく見ている存在 ただある者 気づいている者 意識の中心 ディスプレイという客体ではなく、それを見ている主体 目の内側、顔の内側の主体 意識そのもの 気づきそのもの 私(I) そのもの 呼吸でもなく、思考でもなく、イメージでもなく、感触でもなく それらの内側にあって気づいている者 気づき 意識 意識そのもの 主体 自己 想い起こす 自己自身を 今、この文字を読んでいる「あなた自身」を
最初の3年は想起すべき「自己」を築き上げる あとの1年は築いた「自己」を想い起こす
目の内側 思考以前のポイント 眉間の奥 こめかみとこめかみの間 頭のうしろ 後頭部 松果体 意識の中心 気づきのポイント 耳を通して聴いている者 目を通して見ている者 主体 自己 意識 気づき I Me Myself 私 私自身 顔の内側 目を閉じた暗闇の こちら側にいる者 奥の院から言葉なく見ている者
一般に「自己想起」は勘違いされているかもしれません 自分の肉体に起きる反応や、呼吸、思考といった事柄に 気づいていることを「自己想起」と思っているようです しかし、思考や呼吸、肌の感触なども すべて「自己」から見れば外部世界の現象に過ぎません 肉体は「自己」ではないのです 「自己」とはそれらの内側に在って 言葉なくただじっと見つめている者です 彼には言葉はありません 彼はフィーリングを通して物事に接します 「自己想起」とはその「彼」に気づくことです 「彼」とは自我(自分)から見た場合の呼称で 真我から見れば「私」そのものです 「私」が「私」自身に気づいていること 「自己」が「自己」自身に気づいていること それが「自己想起」です
自己想起には累積効果があります あなたは生活の中で「自己」を忘れ去る 「自己想起」とう言葉の意味さえ思い出せなくなる ここへ訪れるのも避けるようになる 「自己想起」を嫌うようにすらなる しかし気になる 他のすべてが虚しくなる 自分を満たせるものは「自己」しかないと知っているから 人が人生をかけて探しているもの それはほかでもない「自己自身」だとわかっているから だからどんなに逃げてもまたそこへ帰ってくる そして、「自己」を得るための闘いに戻る それが地球の秘密 人間が存在し生きることの意味なのです
自己を想起するとは すべての中心にある意識を想い起こすことです 意識とは今この画面を見ている者 目の内側から見ている主体です 主体に常に意識を置くことが自己想起です 中心を意識し続けること 思考の裏側にある主体とともに留まること 意識、意識、意識 主体、主体、主体 中心、中心、中心 外部でどんな変化が起きようと 成すべきことはただひとつ 「自己」を想い起こすことです
こめかみとこめかみの間にある松果体 ここに魂の御座がある