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誰がこのディスプレイを見ているのか? どこから見ているのか? どこから目を通して見ているのか? 誰がこの文章を理解しようとしているのか? その者はどこにいるのか? どこで考えているのか? 誰がその者を探しているのか? どこから探しているのか? その者自身を探しているのは誰なのか?
一日のはじめに自己の中心とつながりを持つ ベッドの中でもいい 意識の中心に集中する 思考の内側のポイントにアクセスする 思考以前のスペースに切り込む 30分から1時間でつながりが生まれる それを基盤に一日を生きる 日常の中で必ず自己を忘れる だがこの基盤が背後に通奏低音のようにあれば 比較的楽につながりを取り戻すことができる
「自己」を築く方法はただひとつ 「自己自身」に気づき続けるしかない
生体ロボットを操るように 脳の芯から肉体を操縦する
どんなに幸せな夢であっても 所詮それはただの夢に過ぎない それより目覚めたリアルな意識が必要だ それ以外に満たされる方法はない 目覚めた意識のみが、あなたに究極のくつろぎをもたらす
世間的な成功という幸せな夢の中にあって どうしてわざわざそれを壊すような「自己想起」に向かうだろう むしろ、「この夢よ、いつまでも続け」と惰眠をむさぼり続けるだろう あなたの人生に困難が続くのは あなたを目覚めさせるための目覚まし時計が必要だからだ ショックは罰として起きるのではない あくまであなたを目覚めさせるためだ
なぜあなたは世間的な意味での「成功」を手にしていないのか? それはあなたの魂がそのことを望んでいないからだ あなたの魂が求めるものはただひとつ 「自己」への帰還だ 「自己」とひとつになることだ 「自己」を取り戻すことだ ただでさえ考え事に忙しいマインドが さらに世間的な成功を手に入れ、それを守ることにやっきになり また新たな考え事をこしらえていては いつまでたっても意識が「自己自身」に向くことはないだろう だからあなたの魂は自身が「自己」へ向かうよう あえてシンプルな人生をプランしたのだ 「自己」への帰還に集中できる静かな環境を
まずは目を閉じてください 次に、座った椅子の感触 接地した足裏の感触 呼吸に気づいてください そして、目を閉じたまま、身の回りの生活音に意識を向けてください 扇風機、エアコン、テレビ、PCの動作音など、なんでも構いません 最後に、それらに気づいている頭の中の存在に気づいてください 「気づきそのもの」を意識してください それがほんとうの「あなた」です 続いてこちらの画像をご覧ください     しばらくだまって見つめてください         次に、この画像を見ている「あなた」に気づいてください   目の内側から目を通して見ている「あなた自身」にです     そしてその状態をキープしてください   この状態が「悟り」です       「見ている者」が覚醒した「ほんとうのあなた」です          
今、あなたはどこにいますか? 「どこって、ここに決まってるだろう」 "ここ"とは、どこですか? 「ここがどこって、、 ここはここだ」 では、"ここ"だと言っているのは誰ですか? 「ばかにしてるのか? 私に決まってるだろう」 "私"はどこに在りますか? "私"とは、あなたの肉体のことでしょうか? だとしたら、それはどの部分でしょうか? 手? 足? 腹? 胸?  「全部が私だ」 でも、たとえばあなたが自分の手を「これは私だ」と言う時、 "あなた"と"手"には一定の距離があります 手はあなたに見られているもの そしてあなたは、手を見ている者 客体と主体 どちらが本当の"あなた"でしょうか? 「主体だ」 では、主体はどこに在るのでしょうか? 手を見ていた者=主体は、どこに存在するのでしょうか? 手を認識する"意識"は、どこに在るのでしょうか? 意識は目を通して手を見ています すなわち、目の内側に在る者が、主体=意識=あなた です
同じように、今、このディスプレイを見ている時 見られている「客体」としてのディスプレイと 見ている「主体」としての自己がある 「自己」は目の内側に在る 目の内側から目を通して「客体」を見ている 「見ている者」が主体 「見ている者」が意識 これに意識を向ける 「主体」に気づき続ける
たとえば、今、部屋で稼働しているエアコンの音に注意を向ける この時、「エアコンの音」と、それに「気づいている者(意識)」の2組が存在する 外界の現象という「客体(対象)」と、それを意識している「主体」だ 「第3の気づき」では、「主体」に意識を向ける 「気づいている者"自身"」に気づきを置く 気づきそのものに気づく 意識そのものを意識する そしてこの状態をキープする 一日のすべてがこの状態であるまで定着させる すると覚醒が起きる これを一般的に「悟り」という
昨夜、あるバラエティ番組で面白いことが起こった 出演者の女性タレントがインナーマッスルを鍛えるためには 常に正しい姿勢を心がけることが大切だと提案 MCやその他のタレントたちは椅子の端に腰を掛け 背筋を伸ばす姿勢を保ち始めた するとどうだろう いつも 当意即妙なコメントを入れる人気タレントが まったくおとなしく黙ってしまったのである どうやら自分の姿勢に意識を向けるあまり コメントが浮かばなくなってしまったらしい これは「気づき」がマインドを鎮静化させたことによるものだ 彼は自分の姿勢を意識するという「第2の気づき」の状態にあった 「第2の気づき」とは呼吸、思考、感触など 自分の肉体にまつわる事柄に意識を向けた状態のことだ 姿勢への気づきもまさにそのひとつと言えよう 願わくば「姿勢への気づき」を、姿勢に気づいている者 「自身」への 気づきへスライドしてもらえたなら 更に深い気づきの状態に入ったことだろう だが彼は少なくともある瞬間、自分への気づきにより マインドが停止する感覚を味わったはずだ 「街は今 眠りの中 あの鐘を鳴らすのはあなた」 「人は皆 悩みの中 あの鐘を鳴らすのはあなた」 「気づき」によって希望の鐘を鳴らすのは「あなた」だ あなたの瞬々刻々の「想起」が、あなた自身の内に光を灯す 「眠り」を砕く意識の目覚めが、マインドから発する「悩み」を滅する
「眉間に意識を置く」 どうしても自己想起が難しい時がある 試みてもどうしても集中できない時がある そういう時はとりあえず眉間に意識を置く 眉間に意識を集中させる そしてその状態で生活を送る 眉間は「自己」ではない 従って眉間への注意は「呼吸」への注意、「思考」への注意 足裏の設置した感触など、肉体感覚への注意と変わらない だが眉間という場所が特別なだけに 眉間への留意は自己想起へつながる大きなステップになる 古来、眉間には「第3の目」があるといって重要視されてきた たしかに眉間はその内側の自己へと通じている だから、眉間への留意を保つことは、その先の自己想起への準備になる 食事をしながら眉間を意識する 歩きながら眉間に意識を置く 人と話しながら眉間に意識を集中する そして余裕があれば、その注意を内側の意識そのものへと移行させる 眉間に注意を置いている「者自身」に注意を向ける 「自己自身」への気づきを保つ 「主体自身」への留意を絶やさない 眉間は外界と意識の橋渡しになる ここを支点に意識を深めていく 常に眉間に「気づき」の灯火を保ち続けていく
やっつけなければならない考え事は放っておけばいい 考えておかないと落ち着かない不安感もまた自我の習性 無視して「自己」に立ち還る 内側に目を向ける 主体自身に目を向ける 自己自身から周囲を見渡す
目にもとまらぬ速さで駆け抜ける思考がある 話すテンポより遥かに速いためそれが思考とは気づかないが その一瞬に意味は了解されるのである そしてその思考に操られる 無意識のうちに これを見張るのは至難の業だ 事実上不可能に近い だからそうしたマインドの動きを相手にするよりも 自己想起に徹した方が手っ取り早い 実直に自己に気づいていれば やがて思考は静まる
このブログにいらしている方は すでに幾多の道を通り抜けてらっしゃると思う それでも「まだ先がある」と信じてらっしゃる方だと思う 先はあります 答えもあります そのまま信じて突き進んでください 一般社会に生きながらこの道を行くのはいばらの道です なぜなら自分以外の周囲の人々は眠っているから 眠っている人々と交流するうちに 気づかず自分も眠ってしまうから オリンピックの選手たちは連日美しい姿を見せてくれました 彼らは本番のために何年何か月にも渡り 一日、十数時間という過酷なトレーニングを積んだといいます 自己想起もまったく同じ 自分の限界を超える「超努力」が必要なのです 実はたくさんの方がこのブログをご覧になっています 同じ道を歩んでいる方が世の中に何人もいるのです 今はそれぞれが別個に歩んでいますが やがて協力しあう時が来るかもしれません あきらめないでください ブログで腑に落ちないところは無視して構いませんから ひとつでも納得のいく部分があればそれを実行してください アスリートの精神で挑み続けてください
苦悩を断念する 苦悩には蜜の味がある 人間は自ら苦悩したがっている だから高いお金を払い悲しい映画を観に行く 苦悩に浸ることにはある種の快感がある 秘教では「苦悩を断念せよ」という 苦悩への執着も自我の習性
思考を断念する やっつけなければならない考え事を保留する 考えたくて仕方ない欲求を超える 思考への欲求は自我の策略
世の中には「ステート・オブ・プレゼンス」ならすでに得ている といった声も見かけるが、努力なしにこれが定着することはあり得ない それも意識をえぐるような努力だ 多分に「自己想起」や「ステート・オブ・プレゼンス」の概念と 同一化している人も多いと思う だがそれは違う 「自己想起」について考えるのは「自己想起」ではない また、思考や呼吸、身体の感触に気づくのも「自己想起」ではない 「自己想起」とはそれらに気づいている「者」、 目の内側の「主体」、 目を通して見ている「意識」、 耳を通して聴いている「存在」、 奥の院からじっと見ている「自己」そのものに 意識を向け続けることだ 「自己」そのものに気づいていることだ この世で最も難しい作業 禅僧は出家し、これに一生を費やしている 自然はデフォルトで人間に「自己想起」をゆるしていない そこを突き破る そこにこの泥沼からの脱出口がある そして不思議なことに、自然はこの抜け道という「失策」に あえて目をつぶっている ここに神の意志がある 直感した者はすぐに「自己」そのものに注意を向けることだ 「自己自身」に立ち返ることだ Get back to where you once belonged The long and winding road を突き抜け Let it be の境地に至る 今、このディスプレイを見ている「者」に気づくこと 目の内側から見ている「者」を意識すること 目を通して見ている「者」に注意を向け続けること 「自己想起」は向こうから勝手にはやってこない むしろそれを阻止しようとあらゆる艱難が巻き起こる 何かがそれを阻止しようと働きかける だからこそ、それを突破する不屈の意志と精神が必要なのだ ベートーヴェン 彼は言葉を持たぬ神の代弁者だ 「音楽は言葉を持たぬ神の声」 「意識そのもの」に立ち還り続けること 答えはそこにしかない
ついに地元の田舎の書店にも自己想起に触れる本が置かれ始めた 先日何気なくその書店に立ち寄ると、ほぼ見る価値のない本の中で一冊だけ 中野真作という人物の新刊の背表紙が目に留まった その日はペラペラと立ち読みして帰ったが 翌日、気になって購入した 氏の著書には「意識そのものを意識する」「主体を意識する」といった 自己想起そのものを示す言葉が記されている たとえ表面をかする程度でも、自己想起に触れる著作が 片田舎の書店に置かれたのはこれが初めてだと思う いよいよ時が来たのかもしれない 日本人の近年の著作としては他にやまがみてるお氏のものが面白い この二人に共通しているのは「自己想起」やグルジェフには一言も触れずに 結果として「自己想起」そのものを薦めている点だ 二人はおそらく「自己想起」のみならず、「注意の分割」「苦しみの変容」も知らない ウスペンスキーもアウン・ベオールも知らない 中野氏に至ってはアジズにすら触れていない 「ステート・オブ・プレゼンス」は知っているようだが、それほど重視していない これがすべての土台なのに・・・ 「ステート・オブ・プレゼンス」はアジズの専売特許のようになっているが 平たく言えば「自己想起」そのものだ 要はすべての霊的カリキュラムは「自己想起」を中心に展開しているのだ 「自己想起」がなければ思考や呼吸、足裏の感触に気づくといった 一般的な「自己観察」すら難しい いやむしろ、本当に自己想起ができていれば観察すべき思考すら起こらない マインドは自然と停止する アジャシャンティやエックハルトは未解決の無意識層の痛みや苦しみ、悲しみに スポットをあてることを強調しているらしい (彼らの本も数冊読んだがあまりピンとこなかった) しかし覚醒とは暗闇の部屋に「パン」と電灯のスイッチを入れるものだ 明かりがつけば闇は消える それだけだ アジズはマインドやその奥にある未解決のトラウマには触れない それより徹底して「ステート・オブ・プレゼンス」を促す そこがすばらしい 「ステート・オブ・プレゼンス(自己想起)」はそれを知り尽くした人間ですら キープすることは難しい イエスですら嵐の船上で眠ったことを告白している 今後さらに「
ある書店で手にした自己啓発書には、 成功するビジネスマンの条件として「マインドフルネス」について書かれていた ・自分の呼吸にラベルを貼って「1,2,3 ・・・」と数える(数息観) ・接地した足の感触を意識する ・手がものに触れた感触を意識する といった手法が示されていた。 また、コンビニで手にしたある僧侶の著書では、 自分の思考を客観視することが勧められていた。 客観視できるということは、思考と同一化していないことになる 従って、思考から生じる苦悩からも距離をとれる ということだった。 しかし、「覚醒」につながるメソッド(自己想起 - Self Remembering)では、 むしろ「意識している者」、「観察している者」それ自身への注意を促す 「Self」とは「主体」のことだ 「主体」が「主体自身」に気づくこと それが「Self Remembering」だ 「覚醒」や「悟り」のために様々なワークやメソッドが説かれている 私もあらん限りの手法を試した その中で唯一手応えを感じたのが「自己想起」だった 今から25年前、初めて「自己想起」の概念に触れ、それを理解した時 「覚醒」にはこれしかないとすぐに直感した そして1年間は仕事もやめ、人間関係も断ち、 ただひたすら「自己想起」にすべてを費やした しかし、そのあまりの難しさにいつしか他の道へ逃げてしまった それから15年後、再び「自己想起」に立ち返り、 (ある作業中にふいに「やはり自己想起しかないんだ」という思いが込み上げた) 生活の中心に「自己想起」を据えた だがまたも、仕事や日々の暮らしに埋没してしまった そして8年が過ぎ、三度、「自己想起」の道へ突入した そこから3年が過ぎた... もう絶対に逃せない 家族と暮らし、仕事をこなし、同居人の面倒を見ながらも 「自己」を想起し続けなければならない とても難しい できればインドにでも行って、それのみに専念したい だがそれはゆるされない しかし、これから同じ道を歩むであろう多くの人たちにとっては、 インドへ悟りのための出家旅行へ向かうよりも ごく当たり前の暮らしの中で「
まずは接地した足裏の感触を意識する 手がものに触れた感触を意識する 次に鼻を抜ける呼吸を意識する 次に頭をかけめぐる思考を意識する これを繰り返し意識化を強める 気づきが強まったらその気づきを 気づいている者「自身」に向け返す 意識のベクトルを気づき自身へ反転させる そしてそれをキープする 何度でも何度でも何度でも繰り返す 自己を忘れた隙間をなくすぐらいに 自己へ意識を向け続ける その作業を生活の第一義にする 「I」、「私」、「自己」、「意識」、「Me」、「気づき」、「思い出す」 「主体」、「中心」、「センター」、目の内側」、「脳自身」 自分にとって「自己」を呼び戻す力となる言葉、フレーズを 繰り返し自身に呼びかけ続ける そうしながら意識を自己の中心へ引き戻す 気づきを取り戻す 逃さないように引き止め続ける
気づきは一過性のものではなく それをキープし続けることが大事 そしてそれを定着させること 常に「自己」に気づいた状態になること
第1の気づき 自分を取り巻く外的な状況への気づき 第2の気づき 思考、呼吸、手や足の感触など、肉体への気づき 第3の気づき それらに気づいている「主体自身」への気づき 「覚醒」につながるのは 第3の気づき 「主体」とは目を通してこの画面を見ている「者」 目の内側に在る気づき 「自己自身」 「i」 「Me」 「私」
今、このディスプレイを見ている「者」が私(I)
「自己」とは何か? 思考に「気づいている者」 呼吸に「気づいている者」 肉体の感触に「気づいている者」 耳を通して「聴いている者」 目を通して「見ている者」 中心にくつろぐ「気づき」
「自己」を意識の中心にキープしたまま歩く 「意識」が脳に宿り肉体を操縦している そのままストアに入る キープしたまま店内を歩く 目当ての商品を見ながら 内側から観ている「者」に注意を反転させる 主体に気づく そこにいる「I」 あらためて商品に目をやる 商品を見ながら、見ている「自己」にも目を向ける 「意識の分割」 注意を客体と主体の双方向へ分割する その状態を保つ 「自己」への注意をやや強めに保つ 客体への注意は自動的に行われるから 「主体」を失わない そのままレジへ行く 会計をしながらレジ前に立っている「者」に気づく お礼を言いながら、今の状態に 「気づいている者」にも注意を向ける 「注意の分割」 しかし「自己」への気づきを強めに保つ
自己意識の定着度を測る江ノ電沿線の旅 2 2日目。 今日こそ、江ノ島のリベンジだ。 ホテルを発つ前に、到着後と同じように、2時間ほど自己へ注意を向けた。 よく寝たせいか、なかなか調子がいい。 早々にホテルを発つと、まずは藤沢へ向かった。 ホテルで自己をキープしたままの状態でチェックアウトし、 平塚駅から藤沢駅までの東海道線、 そして藤沢から江ノ島までの江ノ電と、意識はクリアだった。 考えてみれば藤沢も江ノ電も、何度となく訪れたり乗ったりしていたが、 自己を想起しながらそこを過ぎるのは初めてだった。 いや、ホテルで自己を想起したのも初めてだった。 東海道線だって意識を中心に保ったまま乗ったのは初めてだ。 私が本格的に「自己想起」に取り組み始めたのは3年前のことだ。 やっと、今までとは違う段階に踏み入ったことを実感する。 藤沢から江ノ島までの江ノ電は、完全に市街地を抜けていく。 車窓にはくっつきそうな民家が流れていく。 それを見ながら、やはり「見ている者」に気づいている。 主体への気づきはキープできている。 そのまま、江ノ島駅で降りると、ロッカーにバッグを詰め、 手ぶらで江ノ島まで歩いた。 途中、10年以上前に、知り合いと語らったコーヒー店を見つける。 「あれから16年か…」 しかし、思い出にひたることなく、自己への気づきを保ちながら江ノ島へ向かう。 江ノ島を望むタワー状のビルも、同じ頃行ったことがある。 そのふもとのラーメン店は、10年ぐらい前に入った。 そのビルの屋上には、いくつかのテレビカメラらしきものが据え付けてある。 「これが江ノ島情報カメラか。あれがNHKであれが日テレで…」 などと考えだすが、すぐに意識を中心へ引き戻す。 とにかく中心に留まる。 主体から生きる。 この作業は遊びではないのだ。 目の内側の「I」を意識しながら、江ノ島桟橋を歩く。 意識すればするほど、歩みは遅くなる。 気づきが深まると、周囲の人との歩くスピードが違ってくる。 どんどん追い越されていく。 時の流れが違ってくる。 人々が、自分に気づかないまま、おしゃべりに夢中になりながら、足早に歩いていく。 私はそれを見ながら、「見ている者」に意識を向ける。 するとまた歩みが遅くなる。
自己意識の定着度を測る江ノ電沿線の旅 1 自分の意識の定着度を測るために、鎌倉から藤沢へ至る江ノ電沿線の小旅行に出た。 まずは生まれて初めて長谷の観音へ向かう。 深い理由はない。 何となく行ってみたかった。 鎌倉の江ノ電始発のホームに立つ。 当然、意識を目の内側に置く。 周りには電車到着を待つ人々の列。 その人々に目をやりながら、それを見ている内側の者に注意を向ける。 主体をキープする。 目の前でもたれ合うカップルを見ながら、 それを見る自分の目の内側の主体へ意識を向ける。 主体、主体、主体 意識、意識、意識 気づき、気づき、気づき 意識の中心に注意を置きながら、あらためて辺りを見回す。 見回している者に油断なく気づいている。 やがて電車が入って来た。 先頭車両に乗り込んだ私は、鉄道オタクのように操縦席の前に陣取る。 運転の機器を見渡す。 「あのペダルはなんだろう?」 運転手が席につき、レバーを引くと電車は動き出した。 「ペダルは関係ないのか。基本は手だけなのか。」 などと考え事に没頭する。 没頭していることにすぐに気づき、気づいた者に意識を向ける。 主体を保つ。 Me、I を意識する。 私。見ている私。 目の内側から見ている私。 I。Me。 気づき。 気づいている者。 気づきの中心。 目の内側の主体。 脳自身。 注意を中心へ引き戻す。 決して手離さない。 忘れない。 意識し続ける。 車両の走行音を聴いている者。 内側から景色を見ている者。 その存在と共に留まる。 決してさまよわない。 私は「私」をキープしたまま電車に乗り続ける。 正直、そこから長谷までの記憶はほとんどない。 「自己」に留意することで精いっぱいで、 周りの景色など見ている暇はないのだ。 本来は何か作業しながら、「自己」への気づきを保てればいいのだが、 私はまだせいぜい散歩しながら、自己想起を保つことしかできない。 人と話すと自己を忘れる。 食べ始めると自己を忘れる。 テレビを観ると自己を忘れる。 考え出すと自己を忘れる。 本を読むと自己を忘れる。 今も、自己を保ちながら文章が書けない。 書いては引き戻し、また書いては引き戻し(意識を)。 決してふた
「アジズとの対話」 を繰り返し読むこと 1回目は10% 2回目は20% 3回目は30% と理解が深まり、それとともに覚醒の度合いも増していきます ただし、読書の背景に真摯な自己想起があることが前提です 読書が自己想起を後押しし 自己想起が読書の理解を深めるのです こうして連動しながらスパイラルのように 意識の覚醒は高まっていきます 私は読み始めて3年になりますが 未だに新たな理解と発見の連続です また、一度理解したつもりの話でも 次に読む時にはまったく新しいものとして入ってくるのが特徴です
中心にとどまる 主体から生きる Me Me Me 意識 意識 意識 気づき 気づき 気づき 見ている者 聴いている者 気づいている者 中心 中心 中心 保つ 保つ 保つ 主体 主体 主体
困難なのは幸せの中にあって自己を想起することです 誰もいい夢が終わることなど望んでいないから 願わくばこの素敵な夢がいつまでも続きますように… としがみつくから 「苦悩を断念せよ」 秘教にそのような言葉があります 苦悩にすら蜜の味があるというのです ましてや幸福ならどうでしょう? どこに現在の幸福を自ら断ち切る者があるでしょうか しかし、幸福も苦悩も所詮は夢に過ぎないのです いい夢にまどろみ続けるのか 夢から覚めてリアルな現実の中にある、おだやかなくつろぎに憩うのか すべては各自の選択にゆだねられています
3年前、この修行を始めた時 「気づき」とは自分の思考に気づくこと 自分の呼吸に気づくこと また、自分の精神的、肉体的な反応に 気づいていることだと思っていました あれから3年が過ぎ、それなりの修行を経た結果 「気づき」はさらにその内側にあるとわかりました 「気づき」とは自分の思考に「気づいている者」に気づくこと 「自分の呼吸に気づいている者」に気づくこと 「自分の精神的、肉体的な反応に気づいている者」に気づくこと つまり、「気づき」に気づくこと 気づき自身 意識自身 主体自身 Me 自身 存在自身 脳自身 自己自身に気づいていること そしてそのまま中心にくつろぐのです 中心にとどまるのです 主体から生きるのです それは満たされています それはやすらいでいます 今、このディスプレイを「見ている者」に気づき それと共にとどまるのです
人はなんと外界のできごとに翻弄されているのでしょうか? 誰かにかけられた言葉に振り回され 自分の肉体の変調に一喜一憂し 頭の中の思考に操られています そこに主体はなく、真の自己も存在しません あるのはマリオネットのような操り人形 ピノキオは惰性で人間になれたのではありません 人間になるためには超努力が必要です 常に自己の中心へと立ち還り続けること 外界へと引かれる引力にさからい 意識と気づきを内側へ引き戻し続けることです それは内的な闘いです そして内側に揺るがぬセンターを確立させるのです 不動の王国です そこは常にやすらいでいます 取り巻く嵐とは別に、台風の目のように静まっています Get back to where you once belonged ほんとうのあなたは目の内側 自己意識の中心にいます
朝目が覚めたらすぐに飛び起きずに 目を閉じたまま目の内側へ意識を向ける 中心へ意識を集中する しばらくすると意識のセンターとのつながりが強くなり くつろぎが広がっていく 無思考でただ在る だが満たされている これを確立したら1日をはじめる そして日に何度も中心へと 彷徨う意識を引き戻す
まずは意識の中心としっかりつながる 鳴りやまない思考は無視し こちらは中心としっかりつながりくつろいでいる その状態をキープする
このディスプレイを見ている者に気づく 画面の文字から目の内側の存在へ 意識のベクトルを反転させる 自分を見るとは自分に気づいていること 自己への気づきにとどまり そこから人生を生きていること この世の現象は一瞬の夢のようなもの 現れては消えてゆく 空の雲のようなもの 思考や痛みもまた然り それらの内側には一切変わらない太陽が輝いている それが私たちの真の姿 主体、光、気づきへの気づき
目の内側に意識の焦点を反転させる 内側から目を通して見ている者 その存在に気づく そしてそのまま気づきをキープする 主体と共に生きる 自己意識の中心から生きる そのスペースは目の内側にある
力まないように 力まずリラックスしながら 自己への気づきを保ち続ける
今ここに在ること それは今この画面を見ている者に気づいていること 思考を超えた存在 永遠の観察者 気づきそのもの それがあなたです
しかし、人間にはそれを持続する意志がありません なぜなら意志を生む自己意識がないからです ですからそれを呼び起こす外部からの刺激が必要です その刺激を自らに課することができるのなら 道程は円滑なものとなるでしょう
結局、私たちは皆、自分がやるべきことは言われずともわかっています あとは本人の決心と実行する意志なのです 敵は本能寺にあり
何があってもまず中心から生きる 中心を保つ 目の内側から見る 見ている者に気づく 気づきをキープする 何をしていてもまず主体がある 主体への気づきがある 外界も思考も肉体反応も 主体を中心として周りで展開している しかし主体は巻き込まれずに 明鏡止水で存在している
みなさんは100年後の人類のために闘っているのです みなさんのその努力は みなさん自身にやすらぎをもたらすばかりではなく これから百年、千年と続くのちの人類の 真の幸福の礎となっていくのです あきらめないでください みなさんは答えにたどり着きました あとはやるのみです
自分の力だけで自己想起をキープするのは至難の業です 想起することを思い出させてくれる 刺激になるような人、ものが身近にあることが望ましいです もっとも簡易的な方法は 目覚めを促す内容をもった本を手元に置き それを読み返して自己想起へつなげることです 自己想起 / ロバート・E・バートン アジズとの対話 / アジズ・クリストフ こうした本はあなたの助けとなることでしょう 自己想起に気まずさや嫌悪を感じるとき そこが勝負です それらは自我(エゴ)の策略です 真のヒロイズムとは それらを越えて本当の自分にたどり着くことです
今、この画面を見ているあなた自身にハッと気づいてください 前かがみにディスプレイに見入り それに魅了されているあなた自身にです ディスプレイという客体ではなく それを見ている主体に意識を向けてください 目というレンズを通して見ている 目の内側のあなた自身にです それを逃さないでください 最も大事な宝です あなたは答えを探して四方を歩き回っているかもしれませんが 答えは外界にはなく それを探しているあなた自身に気づくことでしか得られません 探究者が即ち答えなのです
自己を想起した状態で街中へ出ると 人々が自分への気づきのないまま 夢遊病者のように速足で歩いているのがわかります 彼らは脳内の思考に埋没し 操られています しかしそれはほんの数分前の私たち自身の姿でもあります 気を抜けば私たちもまた その一群の中へと埋もれていくのです
イライラやあせり、怒り、恐れ、不安、パニックなど 否定的な感情の表出ほどわかりやすい"眠り"の兆候はありません 否定的な感情にのみ込まれずに そこから距離を置いた気づいた自己に立脚します 外界のできごと、脳内の感情活動、肉体反応とは関係のない自己 主体への気づき 中心の安定化 気づきへの気づきとそのキープ これらが唯一の安全地帯です

寝禅 - NEZEN

朝目が覚めて すぐにベッドから飛び起きずに しばらく目を閉じたまま 脳の中心へ意識を定め それをキープする 思考活動が始まる前に 意識への気づきを高めておく そして気づきが安定したところで1日を始める 日中は作業の手をとめ 目を閉じ意識の中心へ立ち返る これを何度も行う 自己想起には累積効果があります その積み重ねが後の突破口となります

中心を取り戻す

自己想起を妨げるもの 1. 目に映る魅惑的な外部世界 人間の意識のベクトルは常に外部に向いています。 目に映る魅惑的な対象物に心を奪われ その間、自己への気づきは失われ続けます。 恋に夢中になればその間自己を忘れ 映画に見入ればその間自己は失われ 人と会話すればその間自己に対する気づきは失われ...。 こうして人生の大半は、自己自身に対して意識のベクトルが向かないまま ひたすら魅力的な外部世界に主導権を奪われたまま過ぎ行くのです。 2. 脳内に展開する絶え間ない思考 人間は一日中考え続けています。 ひとつの議題から次の議題へ。 この問題さえ片付けば何とかなると、それについて考え続けています。 やっつけなければならない考え事が多すぎます。 思考の連鎖に終わりはありません。 想念の空白を忌み嫌うかのように、頭は執拗に考え続けます。 そしてこれを相手にし、止めようとしても止まりません。 相手にした時点ですでに思考に絡め獲られているのです。 3. 痛み、かゆみ、欲求などの肉体的な感覚 人間はどこかが痛くなればそこに気を取られ かゆくなればそこに意識が向き 食欲、性欲などが起こればそればかり考え続けます。 肉体に同一化し、それに振り回され続けます。 その間、主体は存在していません。 外部の魅惑的な事柄への執着を断ち切り 絶え間ない頭のおしゃべりから一歩引き いちいち肉体の反応に同一化しないよう 心がけなければなりません。 決意、意志、実行 この3つが自己想起には必要です。 すべてを振り払い、ひたすら目の内側 思考の内側、呼吸の内側 脳の芯へ意識のベクトルを向け返さなければなりません。 中心を保つのです。

NEO HOMO SAPIENS

100年後の人類は現世人類のことを 自分に気づかず無意識に生きた時代として振り返るでしょう 私たちが石器時代を振り返るように           現生人類は人間の最終進化型ではありません   人類にはもうひとつ次の進化ステージがあります       それがNEO HOMO SAPIENS   Next Evolutionの向かう先   次の進化では見た目の変化はないものの   脳がまったく違っています     自分に気づいた脳がデフォルトになります          自我から自己へ   無意識から意識へ    客体から主体へ 眠りから覚醒へ
自己を想起し続ける以外に覚醒へ至る道はありません それは過酷で面白みもなく これといっためざましい体験もありません ただ愚直に淡々と進めていく作業です また弾みがつき惰性で起こることもありません 日々たゆまず少しずつ続けるほかありません しかし時が過ぎて振り返れば 自分が以前より周囲のできごとに 振り回されなくなっているのに気づくでしょう また自分の中に 根拠のない理由のない 不思議な安心感があることに気づくでしょう それが進歩した証です
見ていることにではなく 見ている者に気づく 歩いていることにではなく 歩いている者に気づく 飲んでいることにではなく 飲んでいる者に気づく 今、このディスプレイを見ている 目の内側の存在 目のうしろから目というレンズを通して見ている 主体 意識 自己 気づき Me I これに気づき これへの気づきをキープする 起きている間ずっと
みなさん、自分に気づいていますか? "自分"では漠然としていますね。 ここでは"脳自身"とさせていただきます 脳自身... すなわち、自己、意識、主体、Me、意識の中心は 目の内側、思考の内側、呼吸の内側にあります そこは何者にも侵されることのない絶対の安全領域 あらゆる外部世界とは一切無縁の避難所です まずはここに立脚すること 一日はここにしっかりと意識を定めることから始まります 主体への気づき 意識の中心を定める
愛とは手離すことなのです 執着は自我から生まれます 無執着は確立した自己から生まれます まず自己があり、そのあとに無執着があるのです ですから手離すために気づく必要があります まず目を覚ますことから始まるのです
ひたすら保つこと 保つこと 保つこと 保つこと それのみです
その存在はあまりに近いため それ自身を認識することができません 意識の焦点は常に外側へ向き 内側へ反転することはまずありません 内側へ向けるには意志と決意が求められ 非情なまでの努力が必要とされます これが"自己"を生み出す作業です 目からものを見るのではなく 目の内側からものを見るのです 内側の存在が目というレンズを通して外側を見ます 外側を見ながら同時に内側の"自己"に気づいています 自己、主体、意識、気づき、中心、Me、プレゼンス、脳自身 その時、思考は止み 別のものが静かに現れ始めるのです
今、このディスプレイを見ている"自分"に気づくこと そしてその状態をKeepすること この場を去ったあとも、意識の中心へ留意した状態を保つ 立ち上がり、歩き、服を着て、出かけて、歩き、 人と会い、仕事をし、あるいはショッピングをし、 何かをして帰って来るまで"気づき"を保ち続ける これほど疲れる作業はなく、これほど意義のある作業はありません 状況がどう変われど、なすべきことはただひとつ 自己を想起し続けることです