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8月, 2016の投稿を表示しています
やっつけなければならない考え事は放っておけばいい 考えておかないと落ち着かない不安感もまた自我の習性 無視して「自己」に立ち還る 内側に目を向ける 主体自身に目を向ける 自己自身から周囲を見渡す
目にもとまらぬ速さで駆け抜ける思考がある 話すテンポより遥かに速いためそれが思考とは気づかないが その一瞬に意味は了解されるのである そしてその思考に操られる 無意識のうちに これを見張るのは至難の業だ 事実上不可能に近い だからそうしたマインドの動きを相手にするよりも 自己想起に徹した方が手っ取り早い 実直に自己に気づいていれば やがて思考は静まる
このブログにいらしている方は すでに幾多の道を通り抜けてらっしゃると思う それでも「まだ先がある」と信じてらっしゃる方だと思う 先はあります 答えもあります そのまま信じて突き進んでください 一般社会に生きながらこの道を行くのはいばらの道です なぜなら自分以外の周囲の人々は眠っているから 眠っている人々と交流するうちに 気づかず自分も眠ってしまうから オリンピックの選手たちは連日美しい姿を見せてくれました 彼らは本番のために何年何か月にも渡り 一日、十数時間という過酷なトレーニングを積んだといいます 自己想起もまったく同じ 自分の限界を超える「超努力」が必要なのです 実はたくさんの方がこのブログをご覧になっています 同じ道を歩んでいる方が世の中に何人もいるのです 今はそれぞれが別個に歩んでいますが やがて協力しあう時が来るかもしれません あきらめないでください ブログで腑に落ちないところは無視して構いませんから ひとつでも納得のいく部分があればそれを実行してください アスリートの精神で挑み続けてください
苦悩を断念する 苦悩には蜜の味がある 人間は自ら苦悩したがっている だから高いお金を払い悲しい映画を観に行く 苦悩に浸ることにはある種の快感がある 秘教では「苦悩を断念せよ」という 苦悩への執着も自我の習性
思考を断念する やっつけなければならない考え事を保留する 考えたくて仕方ない欲求を超える 思考への欲求は自我の策略
世の中には「ステート・オブ・プレゼンス」ならすでに得ている といった声も見かけるが、努力なしにこれが定着することはあり得ない それも意識をえぐるような努力だ 多分に「自己想起」や「ステート・オブ・プレゼンス」の概念と 同一化している人も多いと思う だがそれは違う 「自己想起」について考えるのは「自己想起」ではない また、思考や呼吸、身体の感触に気づくのも「自己想起」ではない 「自己想起」とはそれらに気づいている「者」、 目の内側の「主体」、 目を通して見ている「意識」、 耳を通して聴いている「存在」、 奥の院からじっと見ている「自己」そのものに 意識を向け続けることだ 「自己」そのものに気づいていることだ この世で最も難しい作業 禅僧は出家し、これに一生を費やしている 自然はデフォルトで人間に「自己想起」をゆるしていない そこを突き破る そこにこの泥沼からの脱出口がある そして不思議なことに、自然はこの抜け道という「失策」に あえて目をつぶっている ここに神の意志がある 直感した者はすぐに「自己」そのものに注意を向けることだ 「自己自身」に立ち返ることだ Get back to where you once belonged The long and winding road を突き抜け Let it be の境地に至る 今、このディスプレイを見ている「者」に気づくこと 目の内側から見ている「者」を意識すること 目を通して見ている「者」に注意を向け続けること 「自己想起」は向こうから勝手にはやってこない むしろそれを阻止しようとあらゆる艱難が巻き起こる 何かがそれを阻止しようと働きかける だからこそ、それを突破する不屈の意志と精神が必要なのだ ベートーヴェン 彼は言葉を持たぬ神の代弁者だ 「音楽は言葉を持たぬ神の声」 「意識そのもの」に立ち還り続けること 答えはそこにしかない
ついに地元の田舎の書店にも自己想起に触れる本が置かれ始めた 先日何気なくその書店に立ち寄ると、ほぼ見る価値のない本の中で一冊だけ 中野真作という人物の新刊の背表紙が目に留まった その日はペラペラと立ち読みして帰ったが 翌日、気になって購入した 氏の著書には「意識そのものを意識する」「主体を意識する」といった 自己想起そのものを示す言葉が記されている たとえ表面をかする程度でも、自己想起に触れる著作が 片田舎の書店に置かれたのはこれが初めてだと思う いよいよ時が来たのかもしれない 日本人の近年の著作としては他にやまがみてるお氏のものが面白い この二人に共通しているのは「自己想起」やグルジェフには一言も触れずに 結果として「自己想起」そのものを薦めている点だ 二人はおそらく「自己想起」のみならず、「注意の分割」「苦しみの変容」も知らない ウスペンスキーもアウン・ベオールも知らない 中野氏に至ってはアジズにすら触れていない 「ステート・オブ・プレゼンス」は知っているようだが、それほど重視していない これがすべての土台なのに・・・ 「ステート・オブ・プレゼンス」はアジズの専売特許のようになっているが 平たく言えば「自己想起」そのものだ 要はすべての霊的カリキュラムは「自己想起」を中心に展開しているのだ 「自己想起」がなければ思考や呼吸、足裏の感触に気づくといった 一般的な「自己観察」すら難しい いやむしろ、本当に自己想起ができていれば観察すべき思考すら起こらない マインドは自然と停止する アジャシャンティやエックハルトは未解決の無意識層の痛みや苦しみ、悲しみに スポットをあてることを強調しているらしい (彼らの本も数冊読んだがあまりピンとこなかった) しかし覚醒とは暗闇の部屋に「パン」と電灯のスイッチを入れるものだ 明かりがつけば闇は消える それだけだ アジズはマインドやその奥にある未解決のトラウマには触れない それより徹底して「ステート・オブ・プレゼンス」を促す そこがすばらしい 「ステート・オブ・プレゼンス(自己想起)」はそれを知り尽くした人間ですら キープすることは難しい イエスですら嵐の船上で眠ったことを告白している 今後さらに「
ある書店で手にした自己啓発書には、 成功するビジネスマンの条件として「マインドフルネス」について書かれていた ・自分の呼吸にラベルを貼って「1,2,3 ・・・」と数える(数息観) ・接地した足の感触を意識する ・手がものに触れた感触を意識する といった手法が示されていた。 また、コンビニで手にしたある僧侶の著書では、 自分の思考を客観視することが勧められていた。 客観視できるということは、思考と同一化していないことになる 従って、思考から生じる苦悩からも距離をとれる ということだった。 しかし、「覚醒」につながるメソッド(自己想起 - Self Remembering)では、 むしろ「意識している者」、「観察している者」それ自身への注意を促す 「Self」とは「主体」のことだ 「主体」が「主体自身」に気づくこと それが「Self Remembering」だ 「覚醒」や「悟り」のために様々なワークやメソッドが説かれている 私もあらん限りの手法を試した その中で唯一手応えを感じたのが「自己想起」だった 今から25年前、初めて「自己想起」の概念に触れ、それを理解した時 「覚醒」にはこれしかないとすぐに直感した そして1年間は仕事もやめ、人間関係も断ち、 ただひたすら「自己想起」にすべてを費やした しかし、そのあまりの難しさにいつしか他の道へ逃げてしまった それから15年後、再び「自己想起」に立ち返り、 (ある作業中にふいに「やはり自己想起しかないんだ」という思いが込み上げた) 生活の中心に「自己想起」を据えた だがまたも、仕事や日々の暮らしに埋没してしまった そして8年が過ぎ、三度、「自己想起」の道へ突入した そこから3年が過ぎた... もう絶対に逃せない 家族と暮らし、仕事をこなし、同居人の面倒を見ながらも 「自己」を想起し続けなければならない とても難しい できればインドにでも行って、それのみに専念したい だがそれはゆるされない しかし、これから同じ道を歩むであろう多くの人たちにとっては、 インドへ悟りのための出家旅行へ向かうよりも ごく当たり前の暮らしの中で「
まずは接地した足裏の感触を意識する 手がものに触れた感触を意識する 次に鼻を抜ける呼吸を意識する 次に頭をかけめぐる思考を意識する これを繰り返し意識化を強める 気づきが強まったらその気づきを 気づいている者「自身」に向け返す 意識のベクトルを気づき自身へ反転させる そしてそれをキープする 何度でも何度でも何度でも繰り返す 自己を忘れた隙間をなくすぐらいに 自己へ意識を向け続ける その作業を生活の第一義にする 「I」、「私」、「自己」、「意識」、「Me」、「気づき」、「思い出す」 「主体」、「中心」、「センター」、目の内側」、「脳自身」 自分にとって「自己」を呼び戻す力となる言葉、フレーズを 繰り返し自身に呼びかけ続ける そうしながら意識を自己の中心へ引き戻す 気づきを取り戻す 逃さないように引き止め続ける
気づきは一過性のものではなく それをキープし続けることが大事 そしてそれを定着させること 常に「自己」に気づいた状態になること
第1の気づき 自分を取り巻く外的な状況への気づき 第2の気づき 思考、呼吸、手や足の感触など、肉体への気づき 第3の気づき それらに気づいている「主体自身」への気づき 「覚醒」につながるのは 第3の気づき 「主体」とは目を通してこの画面を見ている「者」 目の内側に在る気づき 「自己自身」 「i」 「Me」 「私」
今、このディスプレイを見ている「者」が私(I)