私が初めて「自己想起」の概念に出会ったのは、当時の新刊として平積みされたP.D.ウスペンスキー著「人間に可能な進化の心理学」を手に取ったことからでした。
これをきっかけにグルジェフにつながり、当時出版されていた自己想起に関する書籍は入手できる限り目を通しました。
自己想起を理解するに従い、それまで本当には意味がわからなかったクリシュナムルティの書籍も、何が伝えたいのかがわかるようになりました。
クリシュナムルティは「自己凝視」を重視しますが、自己凝視(自己観察)するには、まず前段階として一定量の「自己想起」が必要であり、それを足場にして自己凝視に進むというプロセスが必要だったのです。
しかし、当時の私は自己想起の「自己」が、「観察者」それ自身であるという確かな認識がなく、結局は自分の身体の所作への気づきをもって「自己想起」としてしまったのです。
もっとも、「自分の所作に対する気づき」でさえ、一般的な意識レベルでは至難の業で、ほとんどの人は自分が知らずに行う癖や動作に気づいていません。また記憶にもありません。なぜなら、眠った状態の人間には、自分の動作に対する気づきさえないからです。
ですから、「自己」への気づきの前段階として、まずは自分の呼吸、思考、動作、感触などへの気づきを訓練するのはいいかもしれません。それを足場にして、次に覚醒へと至る「自己への気づき」に移ればいいのです。
このことを私は便宜上「第3の気づき」と言っています。
第1の気づきは一般的な外界の出来事への気づき。
第2の気づきは自分の身体に起こる現象(呼吸、思考、動作、感触)への気づき。
第3の気づきはそれらすべてに気づいている者(認識者)自身への気づき。
第2と第3の気づきの境界が曖昧で、一緒くたにしていたことが問題でした。第2の気づきを「自己想起」と勘違いし続けたことが過ちでした。
今、私は眼鏡を通してこの文字を見ていますが、見ている者へ注意を引き戻すと、頭の中にほわんとしたやすらぎが広がります。思考はやみ、無条件のやすらかさに包まれます。
本当はこのままの状態でじっとしていたいほどですが、そうもいかないのでまた現実生活の行為に戻るという状況です。
ただ、いつでも「自己のやすらぎ」に戻れるという安心感が今はあります。
これをきっかけにグルジェフにつながり、当時出版されていた自己想起に関する書籍は入手できる限り目を通しました。
自己想起を理解するに従い、それまで本当には意味がわからなかったクリシュナムルティの書籍も、何が伝えたいのかがわかるようになりました。
クリシュナムルティは「自己凝視」を重視しますが、自己凝視(自己観察)するには、まず前段階として一定量の「自己想起」が必要であり、それを足場にして自己凝視に進むというプロセスが必要だったのです。
しかし、当時の私は自己想起の「自己」が、「観察者」それ自身であるという確かな認識がなく、結局は自分の身体の所作への気づきをもって「自己想起」としてしまったのです。
もっとも、「自分の所作に対する気づき」でさえ、一般的な意識レベルでは至難の業で、ほとんどの人は自分が知らずに行う癖や動作に気づいていません。また記憶にもありません。なぜなら、眠った状態の人間には、自分の動作に対する気づきさえないからです。
ですから、「自己」への気づきの前段階として、まずは自分の呼吸、思考、動作、感触などへの気づきを訓練するのはいいかもしれません。それを足場にして、次に覚醒へと至る「自己への気づき」に移ればいいのです。
このことを私は便宜上「第3の気づき」と言っています。
第1の気づきは一般的な外界の出来事への気づき。
第2の気づきは自分の身体に起こる現象(呼吸、思考、動作、感触)への気づき。
第3の気づきはそれらすべてに気づいている者(認識者)自身への気づき。
第2と第3の気づきの境界が曖昧で、一緒くたにしていたことが問題でした。第2の気づきを「自己想起」と勘違いし続けたことが過ちでした。
今、私は眼鏡を通してこの文字を見ていますが、見ている者へ注意を引き戻すと、頭の中にほわんとしたやすらぎが広がります。思考はやみ、無条件のやすらかさに包まれます。
本当はこのままの状態でじっとしていたいほどですが、そうもいかないのでまた現実生活の行為に戻るという状況です。
ただ、いつでも「自己のやすらぎ」に戻れるという安心感が今はあります。