ついに地元の田舎の書店にも自己想起に触れる本が置かれ始めた
先日何気なくその書店に立ち寄ると、ほぼ見る価値のない本の中で一冊だけ
中野真作という人物の新刊の背表紙が目に留まった
その日はペラペラと立ち読みして帰ったが
翌日、気になって購入した
氏の著書には「意識そのものを意識する」「主体を意識する」といった
自己想起そのものを示す言葉が記されている
たとえ表面をかする程度でも、自己想起に触れる著作が
片田舎の書店に置かれたのはこれが初めてだと思う
いよいよ時が来たのかもしれない
日本人の近年の著作としては他にやまがみてるお氏のものが面白い
この二人に共通しているのは「自己想起」やグルジェフには一言も触れずに
結果として「自己想起」そのものを薦めている点だ
二人はおそらく「自己想起」のみならず、「注意の分割」「苦しみの変容」も知らない
ウスペンスキーもアウン・ベオールも知らない
中野氏に至ってはアジズにすら触れていない
「ステート・オブ・プレゼンス」は知っているようだが、それほど重視していない
これがすべての土台なのに・・・
「ステート・オブ・プレゼンス」はアジズの専売特許のようになっているが
平たく言えば「自己想起」そのものだ
要はすべての霊的カリキュラムは「自己想起」を中心に展開しているのだ
「自己想起」がなければ思考や呼吸、足裏の感触に気づくといった
一般的な「自己観察」すら難しい
いやむしろ、本当に自己想起ができていれば観察すべき思考すら起こらない
マインドは自然と停止する
アジャシャンティやエックハルトは未解決の無意識層の痛みや苦しみ、悲しみに
スポットをあてることを強調しているらしい
(彼らの本も数冊読んだがあまりピンとこなかった)
しかし覚醒とは暗闇の部屋に「パン」と電灯のスイッチを入れるものだ
明かりがつけば闇は消える
それだけだ
アジズはマインドやその奥にある未解決のトラウマには触れない
それより徹底して「ステート・オブ・プレゼンス」を促す
そこがすばらしい
「ステート・オブ・プレゼンス(自己想起)」はそれを知り尽くした人間ですら
キープすることは難しい
イエスですら嵐の船上で眠ったことを告白している
今後さらに「自己想起」そのものに触れる著作は増えることだろう
人類の次の進化は「自己想起」がどれだけ浸透できるかにかかっている
先日何気なくその書店に立ち寄ると、ほぼ見る価値のない本の中で一冊だけ
中野真作という人物の新刊の背表紙が目に留まった
その日はペラペラと立ち読みして帰ったが
翌日、気になって購入した
氏の著書には「意識そのものを意識する」「主体を意識する」といった
自己想起そのものを示す言葉が記されている
たとえ表面をかする程度でも、自己想起に触れる著作が
片田舎の書店に置かれたのはこれが初めてだと思う
いよいよ時が来たのかもしれない
日本人の近年の著作としては他にやまがみてるお氏のものが面白い
この二人に共通しているのは「自己想起」やグルジェフには一言も触れずに
結果として「自己想起」そのものを薦めている点だ
二人はおそらく「自己想起」のみならず、「注意の分割」「苦しみの変容」も知らない
ウスペンスキーもアウン・ベオールも知らない
中野氏に至ってはアジズにすら触れていない
「ステート・オブ・プレゼンス」は知っているようだが、それほど重視していない
これがすべての土台なのに・・・
「ステート・オブ・プレゼンス」はアジズの専売特許のようになっているが
平たく言えば「自己想起」そのものだ
要はすべての霊的カリキュラムは「自己想起」を中心に展開しているのだ
「自己想起」がなければ思考や呼吸、足裏の感触に気づくといった
一般的な「自己観察」すら難しい
いやむしろ、本当に自己想起ができていれば観察すべき思考すら起こらない
マインドは自然と停止する
アジャシャンティやエックハルトは未解決の無意識層の痛みや苦しみ、悲しみに
スポットをあてることを強調しているらしい
(彼らの本も数冊読んだがあまりピンとこなかった)
しかし覚醒とは暗闇の部屋に「パン」と電灯のスイッチを入れるものだ
明かりがつけば闇は消える
それだけだ
アジズはマインドやその奥にある未解決のトラウマには触れない
それより徹底して「ステート・オブ・プレゼンス」を促す
そこがすばらしい
「ステート・オブ・プレゼンス(自己想起)」はそれを知り尽くした人間ですら
キープすることは難しい
イエスですら嵐の船上で眠ったことを告白している
今後さらに「自己想起」そのものに触れる著作は増えることだろう
人類の次の進化は「自己想起」がどれだけ浸透できるかにかかっている