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自己意識の定着度を測る江ノ電沿線の旅 2


2日目。

今日こそ、江ノ島のリベンジだ。
ホテルを発つ前に、到着後と同じように、2時間ほど自己へ注意を向けた。
よく寝たせいか、なかなか調子がいい。

早々にホテルを発つと、まずは藤沢へ向かった。
ホテルで自己をキープしたままの状態でチェックアウトし、
平塚駅から藤沢駅までの東海道線、
そして藤沢から江ノ島までの江ノ電と、意識はクリアだった。


考えてみれば藤沢も江ノ電も、何度となく訪れたり乗ったりしていたが、
自己を想起しながらそこを過ぎるのは初めてだった。
いや、ホテルで自己を想起したのも初めてだった。
東海道線だって意識を中心に保ったまま乗ったのは初めてだ。

私が本格的に「自己想起」に取り組み始めたのは3年前のことだ。
やっと、今までとは違う段階に踏み入ったことを実感する。


藤沢から江ノ島までの江ノ電は、完全に市街地を抜けていく。
車窓にはくっつきそうな民家が流れていく。
それを見ながら、やはり「見ている者」に気づいている。
主体への気づきはキープできている。

そのまま、江ノ島駅で降りると、ロッカーにバッグを詰め、
手ぶらで江ノ島まで歩いた。
途中、10年以上前に、知り合いと語らったコーヒー店を見つける。
「あれから16年か…」

しかし、思い出にひたることなく、自己への気づきを保ちながら江ノ島へ向かう。

江ノ島を望むタワー状のビルも、同じ頃行ったことがある。
そのふもとのラーメン店は、10年ぐらい前に入った。
そのビルの屋上には、いくつかのテレビカメラらしきものが据え付けてある。
「これが江ノ島情報カメラか。あれがNHKであれが日テレで…」
などと考えだすが、すぐに意識を中心へ引き戻す。

とにかく中心に留まる。
主体から生きる。

この作業は遊びではないのだ。

目の内側の「I」を意識しながら、江ノ島桟橋を歩く。
意識すればするほど、歩みは遅くなる。
気づきが深まると、周囲の人との歩くスピードが違ってくる。
どんどん追い越されていく。
時の流れが違ってくる。

人々が、自分に気づかないまま、おしゃべりに夢中になりながら、足早に歩いていく。
私はそれを見ながら、「見ている者」に意識を向ける。
するとまた歩みが遅くなる。
どんどん世界が違ってくる。

私が歩いている桟橋の歩道と、人々が歩いている歩道。
まったく同じ道なのに、違う空間を歩いている。

江ノ島にたどり着くと、なぜだかまっすぐ進まずに左へ行きたくなった。
特に理由はない。
そしてしばらく行くと、駐車場と長い堤防に突き当たった。
この堤防が最高だった。

見渡す限りの大海原。
沖にはヨットが並んで浮いている。
左には逗子マリーナや長谷方面が霞んで見える。


私はそこにあったベンチのひとつに腰かけた
そして目を閉じ、自己の中心へ意識を向けた。

するとほどなくしてサイクリングの男性が堤防へ上がって来て、
ほとんど人気のないだだ広い堤防の歩道の中で、
すぐ近くのベンチに腰掛けた。

これでは集中できない。


私は何食わぬ顔で立ち上がり、少し離れた先のベンチに座った。
そして再び、自己の中心へ意識を向け始めた。

時に目を閉じ、また開きながら、眼前に広がる大海原を薄目で見ながら、
私は私自身の意識の中心へ注意を向け続けた。



余談だが、この作業をしていると、なぜか邪魔が入ることがある。
そう感じているだけかもしれないが、
さっきのように人が近くに寄って来たり、話しかけて来たり、
車がこっちへ向かって来たり、バックして来たり、
私が通りかかるとアイドリングをやめて発進してきたり・・・。


また、私自身の肉体も、いや脳(自我)も、私の覚醒を邪魔していると感じる。
注意を主体から逸らすために、次々と身体の各所に疼痛を生み、
こちらが治ればあちら、あちらが治ればそちらと、
切れ目なくどこかい痛みを生み続ける。

そうして、自我が超自我が、さらにその奥の「es(エス)」が、
痛みによって注意を「自己」から逸らし、
自我の主導権を握り続けようとしているのだ。

「自己」の覚醒は、「自我」の終焉を意味する。
だから必至なのだ。

しかし、実際は「自我」は終焉などしない。
ただ、本来の持ち場につくだけだ。

自らが主人であるという勘違いを正すだけだ。


本来の主人である「主体」が実権を握るならば、
「自我」はそのもとで、これ以上なく優秀な部下として
敏腕をふるうだろう。

だからもう、不毛な抵抗はやめてほしい。
稚拙すぎる。





・・・ 話を堤防に戻そう。

私が「自己」に集中していると、ひとりの老人が速足のウォーキングで
目の前を行き過ぎた。

前のめりで、歩幅は広く、とりつかれたように歩いている。
前から来る人にも気づかぬ勢いだ。

おそらく、老人は何かやっつけなければならない考え事の最中なのだろう。
それに夢中で自分の姿勢にも、歩幅にもまったく気づいていない。
老人は頭の中の考え事と同一化し、彼自身の中心は失われている。


私だって実際は自己想起の散歩のうち半分は、
こんな状態で歩いているのかもしれない。

突然雨が降って来て、あわててどこかへ駆け込む時などは正にそうだ。
自分を失っている。


老人はその後も数回、私の前を行き来した。



長い堤防の左の奥は木製のデッキでテトラポッドはなく、
より海を近くダイレクトに感じられた。
このデッキに立ち、風を受け海原を見つめていると、
長谷の観音の前に立った時と同じ感覚に包まれた。


言葉のない気づき。

「気づき」だけがそこにある。
「気づき」が目を通して海を見ている


私は○○家の○○ではない。
○○の子供でもない。
○○の兄弟でもない。
○○家の何代目の、長男でも長女でも次男でも次女でもない。

私は○○を仕事とする○○でもない。

私には名前がない。
肩書もない。

日本人でもない。
何人でもない。
男でもない。
女でもない。
人間でもない。


私は意識。
純粋な意識。
名前のない意識。

私は光。
何人でもない、肉体でもない光。


「私=I」には名前がない。
ただ「意識」として存在している。
ただ「光」として存在している。


「I、I、I、I、I、、、、」

私は今、私自身といる。

「I」とここにいる。


ずっと求めていたものに、やっとたどり着いた気がした。
今までになく満たされた気持ちだった。

この場所、この思い、この感覚、、、

「I」の味わい、私はただそれを感じていた。



その後、弁財天を訪れると、一気にまた波動は下がった。
仲見世通りも弁財天も、竹下通りや原宿と変わりなかった。
大仏と同じ、観光スポットのひとつだった。

私は逃げるように通りを駆け抜けた。


しかし、桟橋に立っても、しばらくは自己を取り戻せなかった。
さっきは空間が違うと感じた人々と、まったく同じ空間を歩いていた。

今の自分の意識レベルは「20%」といったところか。
行きは「70~80%」はいっていたのに。


人間とは場や環境でどうにでも意識レベルが変わってしまうもの。
だからできるだけよい場に身を置き、良いものに触れ、
良い人と交わる必要があるのだ。

江ノ電の江ノ島駅へ向かう道は「50%」程度の気づきだった。


鎌倉へ向かう江ノ電の途中、日蓮の瀧ノ口の受難にちなんだ寺を通過した。
私は思わず「南無妙法蓮華経」を心の中で繰り返した。
しかし、題目をとなえる「者」に気づき、それへ意識を向けると、
題目は自然とやんでいった。
そしてまた、「言葉のない気づき」が残った。

「I、I、I、I、I、、、、」

今はいつでもその気になれば「I」を取り戻せる状態。
しかし、能動的にそうしようとしなければ、「I」は向こうからはやってこない。
この作業は常にに能動的でなければならない。


「思い起こす、思い起こす、思い起こす、、、」

その根気と熱意が必要とされるのだ。


「I」はもう見つかっている。
あとはそれを逃がさず保ち続けるのみだ。




再びスタートの鎌倉に降り立つ。
今回の意識の定着度確認の旅は、
同時に仕上げの集中合宿のようでもあった。

旅の過程を終えて、より自己の中心を取り戻しやすくなった。
「I」をすぐに思い起こせるようになった。


しかし、油断はならない。
むしろここからが正念場であろう。



*極楽寺を通過する頃には、意識を内側に集中させ、
脳に癒しのスペースが広がっていたため、まさに「極楽」だった。



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あなたの帰るべき場所は意識の中心です

常に脳の中心にとどまってください いるべき場所は脳のセンターです そこから世界を眺めてください あなたの帰るべき場所は意識の中心です

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このブログを読んでいる方は、過去に幾多の道を経てきていると思います ひと通りの精神療法を試み、ワーク、修養法を経験されているでしょう 道筋に違いはあれど、「真実」を追求されているのは同じだと思います 私もあらゆる道をたどりました しかし、どの道も決して私の心を満たしてはくれませんでした 一時の高揚感が過ぎれば、またいつもの自分に戻ることを繰り返しました 祈り、感謝、笑顔、音楽、マントラ、マインドフルネス… まだ他にもあげればきりがありませんが、 決して到達できなかったという意味では同じです ダイレクトパスの長々とした説明を聴いて その真意を理解できる者が何人いるでしょうか? 今、このディスプレイを見ている者 目の奥、頭の後ろから言葉なく見ている存在 ただある者 気づいている者 意識の中心 ディスプレイという客体ではなく、それを見ている主体 目の内側、顔の内側の主体 意識そのもの 気づきそのもの 私(I) そのもの 呼吸でもなく、思考でもなく、イメージでもなく、感触でもなく それらの内側にあって気づいている者 気づき 意識 意識そのもの 主体 自己 想い起こす 自己自身を 今、この文字を読んでいる「あなた自身」を