マインドフルネスでは「自分に対する気づき」が基本になっています。
自分の呼吸、動作、思考、感情、感覚、感触といったものに目を向けることで、それらの自分にまつわる現象から距離を置き、客観視するためです。
この作業は「自己想起」の前段階として有用です。
人間は通常、こうした自分にまつわる現象に気づいておらず、動作の癖にも気づいていません。今、自分が考えていることにも気づいておらず、周囲の出来事および、肉体に起こる痛み、痒み、不快感などに同一化し、埋没しています。
これは海に溺れて泳ぐことも、何かにつかまることもできず、ただあっぷあっぷしている状態です。
「自分に対する気づき」があれば、海に浮かぶ木片にしがみつき、ある程度は安全を確保できます。しかしまだ、荒れた海から浮上することはできません。
「自分」という言葉はあまりに漠然としています。
何をもって「自分」とするのか?
「自分」とは何か?
これを明確に説明するのは難しいです。
しかし突き詰めれば、「自分」とは認識者としての「意識」であり、「意識」を認識することで初めて人は「存在する」と言えます。
この、認識の主体をわかりやすく区別するために、ここでは「自己」と呼ぶことにします。
「自己想起」の自己とは、自分と自分の周辺に気づいている主体としての意識、すなわち「自己」を思い起こすことです。
通常、人間は自分の動作に気づいていないばかりでなく、それに気づいているべき「意識=自己」に対する気づきもありません。
人は常に周囲の魅力的なものごとに注意を奪われ、娯楽、飲食、旅行、趣味などに没頭して「自己」自身を忘れ切っています。
昔から出家して俗世を断つのは、こうした「自己」を忘れさせてしまう魅力的な物事に埋没し、「気づき」を失うことを避けるためです。
どんなに集中して「自己」への気づきを築いても、ほんのわずかな出来事をきっかけに、たちまち人は「自己」を忘れてしまい、そのまま数日、数か月、数年と容易に忘れ続けてしまいます。
そして時折、「自己」に対する気づきを失っていたことに気づき、再び注意を内側の「自己」に向け始めるものの、それほど時間を要さずに、またも「自己」をすっかりと忘れ果ててしまいます。
現代のようにいつもスマホを手に持ち、一日中チェックとやりとりに明け暮れているようでは、到底「自己」を思い出す隙間さえありません。その意味で現代ほど、「自己」を取り戻すのが困難な時代はないかもしれません。
今はコロナ禍によりステイホームを余儀なくされていますが、この期にゲームやスマホに没頭するのではなく、少し人と距離を置き、静かな部屋で目を閉じ、注意を「自己」自身に向けることをお勧めします。
最初は思考に巻き込まれ、「自己」を思い出すことすらできないでしょう。しかし、現れた思考にいちいち巻き込まれることなく、冷静に見送れるようになれば、「自己」を思い出すチャンスも増します。
目を閉じ、瞼の裏の暗闇を見ている「存在」に気づいてください。
注意の向きを思考から、思考に気づいている「自己」自身に反転してください。
そしてそのまま留まってください。
思考に気づいている「者」に気づき続けてください。
思考に「気づいている者」が、ほんとうのあなた自身です。
人は通常、脳裏に脈絡なく流れ来る想念に同一化し、それを自分自身だと思い込んでいます。その想念がすべて自分自身から発せられるものだと思い込んでいます。しかしそうとは限りません。
自分とはこんなものなんだという偽りの自己像と同一化するのをやめてください。あなたはあなた自身が思うような小さな存在ではありません。
「意識」は無限です。そして永遠です。
「意識」こそが、あなたの正体です。
そして覚醒とは、「意識」が意識自身に気づいていることです。
今、目を通してこの文字を追っている、目の内側から見ている「あなた自身」に気づいてください。文字という「客体」ではなく、それを見ている「主体」に気づいてください。
「主体」への気づきをキープし、それが定着した状態が「悟り」です。
内側の自己自身に気づいた立脚点から、あらためて周囲を眺めてください。
その時、注意は「見ている者」と「見られているもの」の双方向に向いています。
この状態で日常生活を送ることが理想です。
日常の行為に取り組みながら、同時に内側の「自己」自身への気づきも保ちます。
ステイホームの現在は、この習慣を確立させる絶好の期間です。
ひとりの時間を設けやすい今こそ、内側に注意を向ける力を強化してください。
あなたが求めているのは外部の誰か、何かではなく、目の内側から目を通して外部を見ている「あなた自身」なのです。