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愛と充足感の源である「自己」を見失わないでください

まず何を想起するのかをハッキリ認識する必要があります。 一般に自己想起という場合、自分の肉体の感覚、呼吸、思考、感情などに、 気づいていることだと考えるケースも多いようです。 しかし、これらは「自己」ではありません。 「自己」は肉体や思考、感情の内側に在って それらを裏からじっと見ている存在です。 今、この文字を目を通して見ている存在が「自己」です。 「自己」は目の内側、眉間の奥、意識の中心にあって そこから肉体を含めた自分の存在を体験、認識しています。 「自己」こそが、この世にやって来た私(あなた)の正体です。 それは意識体であり、肉体ではありません。 肉体に宿り、それを操縦する者です。 「自己想起」とは、この「操縦者」を想い起こし、気づきを定め、 覚醒状態を保ち、定着させることです。 習い事は一日数時間ですが、「自己想起」は一日の起きている間すべてです。 「人の子が頭を横たえる場所はないのです」とキリストは言っています。 意識の中心に、日に何度も注意を引き戻すことです。 私たちの関心は、目に映る周囲のできごとと、 脳内のおしゃべりに向けられています。 やっつけなければならない考え事に追われ、 すべてが解決しないまま、疲れて床に就きます。 翌日起きると別の新らしい、処理すべき考え事に追われ、 その日もまた一日中、対処法を考えて終わっていきます。 これが一生繰り返されます。 この輪の中から抜け出し、夢から覚めた 「自己意識」の状態へ還る作業が「自己想起」です。 いつでも中心を保ってください。 愛と充足感の源である「自己」を見失わないでください。
寝起きは比較的、マインドがまだ静かな状態 ここを狙って注意を主体に集中します 思考が忙しく動き始める前に 目が覚めったベッドでいきなり起き上がらずに しばらく目を閉じたまま、まぶたの暗闇を見ている こちら側の意識に注意を向けます 起きたことを認識している認識者 状況に気づいている気づきそれ自体に気づきます この気づきの状態を土台として その日一日の生活を過ごします しかし日常に埋没して必ず主体を忘れるので 日に何度か立ち止まり手を休め 目を閉じ内側に意識を集中します 何度でも注意を外側から内側へ反転させます 気づいている者自身に気づくのです

今は両者の引っ張り合い、綱引きの状態だ

一夜明けて、強烈な眠りの揺り戻しがきた 自己想起がうまくいった場合、翌日はその分、 抗しがたい眠りがやってくるのが通例 今までならそのまま数日、数週間、数ヶ月と眠り続けていた だが今度ばかりは違う このままではいけないと感じた私は、夜にも関わらず 5時間に及ぶ「歩禅」に取り組んだ 「歩禅」とは読んで字のごとし、歩きながら行う禅だ 道をゆっくり歩きながら、目の内側の「主体」に注意を向け続ける 「自己」に対する気づきを保ち続ける 「i」を意識し続ける 長時間の格闘の後、どうにか昨日レベルの気づきを取り戻した しかし取り戻すまでの間、以前のイラつきがぶり返した 対象の相手に心の中で罵詈雑言を尽くした 理屈では私が正しい、しかし現実は正論など蹴散らして進行する この苦境を脱する道はただひとつ、自己を想い起こし、 ぐるぐる回りを繰り返す同じ思考とそれに基づくイラつきを 超然と超えることしかなかった i, i, i,… 私, 私, 私… Me, Me, Me,… 気を失いかけている人を呼び起こすように 私は自身に向かって呼びかけ続けた するとまばらに、ふと「すっ」と安らかな瞬間が訪れた 今までのイラつきから離れた、どうでもよくなった心境が表れた イラつきの最中には「どうして自分はこのような目に合うんだ」 と憤りの思いしかなかったが、安らぎの瞬間には、 「いや、こうした四面楚歌の状況だからこそ、自己想起へ追い立てられるのだ」 「彼らはそのために憎まれ役を演じてくれているのだ」と心から素直に思えた しかし、気を抜けばすぐにまたイラ立ちに戻る 今回はそれでも、安らぎの側へ戻せるインターバルが縮まった また、憤りながらも、どこかで醒めている自分がいる 今は両者の引っ張り合い、綱引きの状態だ 意識を取り戻すと、脳の中でミシミシと音がする また、脳の後ろへ引っ張られる感じがする 視床のあたりが引き延ばされる感覚がある あと、昨日初めて、コンビニのレジで、自己を保ったまま 軽く会話し、お釣りを受け取ることができた

今も内側に「私」を感じる

その後、食事を摂り、一旦意識が薄れる しかし、再び集中すると、比較的容易に「中心」を取り戻す 食欲はあるが性欲、睡眠欲はなし 今も内側に「私」を感じる

夢から覚めるためには「主体」の認識が必要です

主体と客体という二元性を超越する前に まずは主体をしっかりと認識する必要があります なぜなら、人々は自身の「主体」を完全に忘れ切っているからです 主体を忘れ「客体」である外部世界のできごとにこころ奪われ翻弄されています これを夢見の状態といいます 夢から覚めるためには「主体」の認識が必要です 「主体」への気づきを保ち、確実性を強化する必要があります

「気づき」自身に注意を払うことで「気づき(自己)」への気づき、すなわち「自己想起」が始まります

電車やバスでスマホにジッと見入っている人たちは その間、自分の姿勢や呼吸、座った椅子への感触に気づいていません 我を忘れてスマホの画面に没入しています そこに「自己」は存在しません まずは自分の現在の所作への気づきを取り戻し 気づきの「主体」を確立させます 次に「気づき」自身に注意を払うことで 「気づき(自己)」への気づき、すなわち「自己想起」が始まります 1. 外界のできごとへの気づき 2. 自身の肉体に纏わる現象(呼吸・思考・姿勢・感触など)への気づき 3. それらに気づいている「自己」自身への気づき 覚醒に至るのは「3.」の【第3の気づき】のみです

「意識」こそが「自己」であり、「主体」「I」「Me」「わたし」です

一般に、気づきと一括りに言う時、その対象は自分の動作、思考、感情、感触、呼吸、 といった自分の肉体に纏わる現象への気づきを指します 数息観は呼吸への気づき、マインドフルネスは所作への気づき しかしそれらは、覚醒へ至る「自己」への気づきではありません 自己想起の「自己」とは、外界のできごとと、肉体の現象に気づいている 「内側の意識」それ自身のことです 「気づき」の本体に気づくのが「自己想起」です これを明確に認識するのは大事です なぜなら多くの人が、自己想起を自分の肉体に纏わる現象への気づきと 勘違いしているからです 私は自己想起を知ってから20年以上、思考や呼吸に気づくことを 「自己想起」であると思い込んで来ました 「いつでも呼吸に気づいていなさい」と書いたステッカーを部屋の壁に貼り、 それを見ては自分の呼吸への気づきを取り戻していました しかしこれは「自己想起」の前段階に過ぎませんでした 私たちの注意は常に、自分の外部世界へとベクトルが向いています 敵から身を守る動物時代の名残です これは肉体に準拠します しかし、私たちの本体は肉体の内側に在る者です 外界のできごとと、肉体の現象の双方に気づいている「認識者」です これは純粋に「意識」としての存在です 私たちの主体は「意識」です この「意識」こそが「自己」であり、「主体」「I」「Me」「わたし」です そして「意識」を忘れずに想い起こし続けることが「自己想起」です 目を閉じた際に、こちら側からまぶたの裏の暗闇を見ている存在 外界の様々な音を聴いている存在 それ自身に気づき続けるのです 同じことの繰り返しになりますが、それのみです この作業を地道にこつこつとやり続けるのが「自己想起」です

自己想起には累積効果があり、努力は必ず成果をもたらします

自己想起のみがこの苦境から抜け出す唯一の手段です 考えても抜け出せない どこへ行っても逃げられない 解決策はなく四面楚歌、八方ふさがり しかしだからこそ、私たちは最後に残された唯一の抜け道、 自己想起へと何度でも立ち還らせられるのです 私が初めて自己想起を知ってから、すでに27年の時が経過しました 途中、20年近く、自己想起を完全に忘れ果てました いえ、あまりにしんどくて逃げたのです こんなことは無理だ、これで人生が終わってしまう と自分に言い訳を続けました しかし、心のどこかで、いや、答えは自己想起にしかないんだ このまま逃げ続けるのか?という思いが続いていました 今でも迷う瞬間はあります 本当にこれでいいのか?と疑念がわくこともあります 自己想起をしている最中はまともに仕事もできず ゆっくり歩くか、じっとしているかが関の山です しかしやらねばなりません なぜならそれだけが唯一の残された答えだからです 自己想起こそが失われたアーク、パンドラの箱、隠された地球の秘密なのです 今、この文章をお読みいただいているみなさんも 本当は心のどこかでわかっているはずです だからこそ、普段は気の進まないこのブログに 意を決して読みに来てくださっているのです あなたの目を通して見ている者が あなたの目の内側から見ている存在が あなたを動かし、必要な情報へと連れてきているのです スピリチュアルの書籍を見ても、驚くほどに自己想起には触れていません これほど根本的で大事な知識なのに、ほとんどが触れないのは不思議なばかりです なぜ自己想起は封印され続けるのでしょうか? 人類を救うたった一つの鍵は、いつまで秘密裏に隠され続けるのでしょうか? 意識の中心を保ち続けてください 揺るがずセンターに留まってください あなた自身とともに在ってください あなた自身であり続けてください 覚醒とはあなたがあなたに還ることです もっとも自然で普通の状態に戻ることです 今の人類は「自己」を忘れたまま周囲と自身の思考に操られる 夢遊病者の集まりです 夢から覚めなければなりません 愛も平和も感謝もやすらぎも、すべてはそこから始まり
自己想起は決して不可能ではありません。 限りなく無理に見えますが、努力が裏切ることはありません。 弾みがつくことはありませんが、やっただけの累積効果があり、 その分は少しずつ想起しやすくなっていきます。 おそらく、松果腺を活性化させているのです。 その作業が「自己想起」であり、目の内側の「自己」に 注意を向け続ける作業なのです。 人と話していても油断なく「自己」を意識している。 歩く時も、座るときも、食べる時も、待つ時も、 常に意識の中心に注意を向け続ける。 「主体・自己」自身を意識し続ける。 これのみが大事な作業です。
本当の自分(自己)は、目のうしろ、視床から松果腺のあたりに存在します。 ここから目を通して見ています。 今、この文字を見ている「者」に気づいてください。 目の内側から、目というレンズを通して文字を見ている 「意識」に注意を反転してください。 「気づき」自身に気づいてください。 通常、私たちは「自己」自身にまったく気づかぬまま、 外的状況に同一化して日々を過ごしています。 そして、ほとんどの人は、そのまま一生を終えて行きます。 最後に残るのは「自己」のみです。 自己想起を通して獲得した「自己」と「意識」が、 死後にも頼りになる唯一の砦です。 口座に富を蓄え、豪邸を建ててもあの世にはひとつも持っていけませんが、 「意識」は永遠です。 それこそが無限、永遠の富です。 やがては消えゆく、一過性の魅惑にとらわれず、 永遠に続く真実のやすらぎを手にしてください。 それが真の「幸福」であり、真の「勝利」なのです。 世の偽りの繁栄に迷わされずにいてください。
困難に耐え抜くと、脳の中心にやすらかな場所が待っています。 外的状況は何も変わらないのに、なぜかくつろいでいる不思議な安心があります。 悩みや不安、痛みは消失したわけではありません。 依然としてそこにはあるものの、以前のように気になりません。 それはそれとして、距離を置けるようになります。 そしてこちら側では「別のもの」が、くつろいで眺めているのです。 壁に打ち克ち、破壊する道ではなく、壁の横をすり抜ける道です。 敵を相手にせず、敵の線上から歩みを外してかわす方法です。 それが「自己想起」であり、対処療法ではない、根本的な解決の道です。
人間は一日中、自己以外のものに振り回されています。 周囲のできごと、人の言葉、指示に操られ、 それに対して発生する脳内の想念(マインド)に乗っ取られ、 身体の痛みやかゆみに気を取られ、 解決策を案じているうちに日が暮れて、 結局、何も変わらないまま一日を終えて行くのです。 その間、自己の主体は忘れ去られ、等閑にされ、 主体自身も外的状況に同一化して、己の存在は事実上なくなっています。 覚醒とは、忘れ去られている「自己」を取り戻すことです。 これには非常な忍耐と、努力、修練が必要です。 常に「自己」を想い起こし続けることは、 この世でも最も難しい、不可能に近い作業です。 しかし、これをやり遂げることが真のヒロイズムであり、 内部、外部の敵に打ち克ち続けることで、「自己」は取り戻されます。 この道に入ると、不思議なほど困難が立ち現れます。 人間関係を含めた外的環境は厳しくなり、 肉体的な苦痛は増します。 すべてが、あたかも「自己想起」を阻むかのように、 行く手に立ちはだかって来ます。 少し調子が出て「自己」に集中し始めると、 必ず誰かがやって来て話しかけたり、身体に痛みかゆみが発生したり、 外で騒音が起こるなど、とにかく邪魔が入ります。 しつこく想念が纏わりつくこともあります。 これらすべてをはねのけて、「自己」の中心へと向かうことは至難の業です。 ほとんどの人にとって、それはただ、不可能な作業です。 しかし、100%不可能ではないことが、この作業のポイントです。 たとえどんなに狭き門でも、駱駝が針の穴を通るほど難しくても、 1%でも可能性がある限り、トライする価値はあります。 あとはその人の信念、根気、意志、決意、実行あるのみです。