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5月, 2019の投稿を表示しています

2週間近くは「自己」がほとんどない状態でした

私は日頃ひとりで暮らしていますが、先日、久しぶりに家族が来て数日泊まった結果、 それまで高まっていた集中は途切れ、完全に眠ってしまいました。 2週間近くは「自己」がほとんどない状態でした。 家族が帰って1週間が過ぎ、落ち着いてきたところで喪失感がありました。 私は自分が眠っているかもしれないとぼんやり気づきました。

座して目を閉じ心を静めることばかりが瞑想ではありません

座して目を閉じ心を静めることばかりが瞑想ではありません。 意識が目の内側にあり、それ自身に気づき、 そこから目を通して見ている状態にあれば、それが瞑想です。

それが「自己」「私」「I」「認識者」「主体」「Me」「知覚者」です

思考は言葉を伴うものばかりではなく、 言葉のないイメージ、音、音楽なども意味します 人間の頭の中には始終何らかの雑音が鳴っていて、 静寂無音であることがありません マインドに無思考はなく、壊れたラジオのようにノイズを発し続けています 人はそのノイズにいちいち同調し、とりとめのない思考に没頭しています この状態に気づくことが第一歩 自分の日頃の状態が異常だと認識することが始まりです

「自己」はその存在に気づき感じる(feel)ものです

「自己」はそれについて考え理解するものではなく、 その存在に気づき感じる(feel)ものです 「自己想起」について考えることは「自己想起」ではありません むしろ「自己想起」について考えていることに気づき、 「気づいた者(自己)」に注意を向けることが「自己想起」です

人間は抑えがたい「思考への欲求」に追われています

マインドはひっきりなしに考えています。 やっつけなければならない考え事に追われ、 起きている一日中、頭の中のおしゃべりは続きます。 そしておしゃべりのテーマに必然性はなく、 しばらく経てば思い出せない内容がほとんどです。

人生のドラマは映画館で上映される映画のようなもの、映画館を出ない限り上映は続く

人生に起こるよろこび、哀しみなどの様々なドラマは、 映画館のスクリーンに映し出される映画のようなものです。 人は投影物に過ぎない映像の中のできごとにのめり込み、 同一化して一喜一憂します。 しかし、それがどんなにリアルであっても、 所詮は作り物のドラマ、平面の映像に過ぎません。

自己への注意力を高める「客体 ⇔ 主体ストレッチ」

まずはこの画像を見てください。 ルーヴル美術館に所蔵される有名な彫刻「サモトラケのニケ」です。 次にそれを見ている者に注意を向けてください。 目の内側から目を通して見ているあなた自身にです。 見られている対象物(彫刻の画像)が客体 見ている者が主体です。